21世紀人になるために

宇宙の方々の仲間に入るには「想念観察」は必須条件です!!

水瓶座讃歌30 パート4

[目次]

・紫日記 その2   仙田むらさき

 

2月3日、一応「欲について」までの感想文を送ります。

わかるものもあれば考えてもみなかった内容のもあるし「そうだったのか」
と思うのもあります。結論から言えば、私は全くの理解以前の存在で、エ
ゴを中心に生活しているということです。自分が一体何をわかっているの
か、わかってないのか、さっぱりです。

 

・・・私はいくら宇宙の人や他の方々の考え方から真理を学んでも、生活
として実践出来ていないので身につかないと思います。

実践するーーつまり真理を生きることをしなければ、全く意味のない知識
の収集です。一応努力はしているんですが、理解以前の状態にいるので、
難しいのです。

せっかくのアランメッセージ、役立てなければと思うのですが、どうやら
私にはまだアランメッセージを受け取るのは早過ぎたように思う今日この
頃です。

・・・全く自分でもどうしょうもない程、このーカ月というもの、非常な
無力感にひたっています。

 

 

 

私、永遠に創造を理解したり、近づいたり真理に目覚めたり出来ないんじ
ゃないかと思います・・・だって私・・・本当に何にもわからないんです。

 

何にも理解できないんです。真理なんか知りません。何ひとつわかってい
ません。私はきっとどうしょうもなく霊性が曇っているんです。馬鹿な
んです。今まで「わかった」と思っていた真理だって、一体どれだけわか
っていると言えるのか・・・。

 

私の「わかった」っていうのは、ぼんとにゴミほどの小さなものに決まっ

ています。・・・今、頭の中に「それでいいじゃないか」「それが当然だ」
という言葉が浮かびました。フッと気持ちがリラックスしました。

 

 

 

(二日経ちました)

今日は「落ち込んでいるヒマがあったら、とっとと真理の勉強せんかい!」

と燃えて(?)おります。でも相変らず急にできた心の穴?はあります。
ぽっかり空いたカラッポの空間です。この空間に入ると思考する気が失く
なるんです。

 

カラッポでいたい・・・休息したい、そんな感じでした。ただ、そこに滞
りすぎたため、無気力になったのかも知れません。

 

でも、この空間ができたおかげで、きっとバランスをとって思考できる気
がします。どこまでも拡がっているこの空間を大切にしていきたいです。

さて、話がそれてしまいました。感想文でしたね。

 

「禅」や「暝想」のところや、また「欲について」などは、それまで宗教
で正しいとされてきたことを覆すような内容で、胞がス~っとなる
清涼感がありました。全く無理のない自然な考え方だったからです。

 

 

 

「優劣意識」については現在その中にどっぷりつかっている私としては、

一言一言かみしめる思いでした。でも、なかなか抜け出せないんですよね・・・

自分でもホント嫌になります。

 

心の中では、優劣意識なんて錯覚よ!・・・などと思っていても、いつのま
にか優劣意識の芽生えている自分に気付き「あ一あ・・・」とがっかりし
たり、苦悩したり・・・今の私の課題なんです。早く抜け出したい・・・。

 

少しでも向上したいと頑張って、それを他人と比べて評価して・・・そう
いう時があります。私は本当に、こういう意識を失くすことができるのだ
ろうか・・・(こんなことの繰り返し!)。

 

なんだかダラダラ書きましたけど、こんな感想でいいでしょうか。
では、また今度は三つめの感想文を送ります。 かしこ

 

 

 

 

PS •機関紙No 28のレベルの詩「どう行動すべきか」は、創造の法則
と淀に従って行動せよ、としか結局はわかりません。

愛から行動せよ(自己愛、エゴ愛じゃダメだろうけど)ということ

かしら?

でも、それを具体的に理解し実行するには、日々創造への理解と目
覚めに努力するしかありませんね。

 


2月7日、さて、三回目の感想文を書きます。

「感謝と尊敬」のところでは、私自身も思っていたことでしたので、とて
も納得できました。私は一度だけ深い感謝と尊敬の気持ちを味わったこと
があります。それは自分がとても大きな愛の中で生かされ守られているこ
とを実感できた時でした。その時は「創造」という存在は知らなかったの
ですが、この愛が神というようなものではないことはわかりました。

 

何と呼んでよいのかわからなかったので「宇宙」としか言い表わせません
でした。

 

あの時ほど、深く大きな愛を感じたことも、感謝と尊敬の念を抱いたこと
もありませんでした。ついでに言うと、とても幸福で安心しきった気持ち
になりました。今思えば、私の目を醒まさせるための創造からのプレゼン
卜体験だったのでしょうね。

 

 

 

あの時はたまたまそういう体験をさせて頂きましたが、今度は自分から意
識して霊性を向上させ、感謝と尊敬の境地に至りたいです。

 

私がこうして学ぶ理由の一つは、あの時の境地をもう一度味わいたいとい
う気持ちがあるからなのです。

 

「進化について」と「無我の体験」「エゴについて」は、私の中でずっと

不明瞭だったエゴに対しての考え方に変化を与えてくれました。おかげで
想念観察がよりやり易くなりました。

 

また「想念と現象」も、初めて知る内容で新鮮な驚きでした。自分でよく

考えてみましたが、確かにアランさんの言う通りかも・・・と納得しました。
ということは、想念に意志が入った時、つまり想念と一致した時、現象が
起こるのでしょうか?

 

 

 

時々想念にはまって、自分の空想が現実と区別がつかなくなる時がありま
す。すると行動もそれに従いますから、事態が想念の通りに動くという場
合もよくあります。これは直接的(?)な変化ですが、超能力の場合

(サイコキネシスの場合)想念の波動が周囲に影饗を及ぼす訳ですね。

 

でも厳密に言えば、想念に集められたエネルギーが影響を及ぼすというこ
とですね?

 

例えば、これは超能力ではないかも知れないけど(あくまで一般的な意味
で)、私は時々欲しいものがあると、自然と手に入ることがあります。

 

お金ないけどセーターが欲しいとかいう都合のいいことも、義母や母がた

またま買ってきてくれたりして叶います。自分でも前から不思議に思って
いましたが、アランさんの話から、ちっとも不思議じゃない、むしろとて
も自然なことだということがわかりました。

 

 

私はバシャールを読んで試しに「願ったことは必ず叶う」と信じこんで

「お金ないけどセーターが欲しい」と願ったことがありました。そうした
ら少し時間がかかりましたがドドドッと、ふって 湧いたようにセーターが
何枚も手に入りました。

 

これで確信を得た私は、その後も時々、欲しいものがあると絶対手に入る

と信じて「欲しいな」と思うとすぐに叶うようになりました。

 

不思議と強く「欲しい」と願うより「絶対手に入る」と完全に信じる方が
叶うようです。欲しいものそのものに対する執着はほとんどない方がよい
のです。これも想念(信念?)がエネルギーを集めて起こす現象なんでし
ょうね。

 

もちろんバシャールの言いたかったことは、自分の現実は自分次第という
ことや、自分の可能性を信じなさい、想念の大切さを知りなさいというこ
とであって、私のように物質の願望を満たすためのものではないです。
でも、私はこの実験で自分の人生にも自信が持てるようになり、責任感も
持てるようになり、バシャールの言いたかったことも、よくわかるように
なりました。

 

 

 

同じように様々な体験を通して、これからは創造に対する絶対的信頼の気
持ちを育てていきたいです。

 

結局、それは一番最初に書いた「感謝と尊敬」の境地に至ることだと思い
ます。つまり創造の愛を感じることです。その愛を自分の内に呼び起こす
ことです。そうすれば絶対に不安はなくなります。

 

常に愛の中に生かされ、守られていることがわかるので、
信頼感が確立されるからです。

 

そして感謝と尊敬の念が起きるのです。

 

 

私自身の体験から言えば、これらは完全に一つにつながっていて、「愛」から分かれた、あるいは愛に伴う副産物のように思います。

あの体験を与えてくれた創造に感謝しています。

おかげで私は、再びあの時の境地を求めて真理を学べているのですから。

 

想念観察は「ある程度」出来てるのか否か、自分ではわかりません。

 

 

 

2月28日、

機関誌No 29 . ありがとうございました。非常に非常に役に立つ内容ば
かりで何度も何度も読んでいます。

 

この頃は思い出すと機関誌ばかり読んでる毎日でした。昨年末頃からずっ

と不安定な精神状態で、気分のすっきりしない毎日だったのです。この状
態は自分にとって、とても重要なものであることはわかっていたのですが、
原因もわからないし、出口もみえないしで少し辛かったのです。

 

それで一昨日、編集部にお手紙を書きました。書いているうちにだんだん
解決の糸口がみえてきて、少し元気がでてきました。書き終えて少し経ったら、主人が機関誌No 2 9を持って帰ってきました。それで完全に解決
し、辛い状態から抜け出すことができました。

 

一番救いの元となったのは、編集部さんからのアドバイスの一言でした。
ありがとうございました。

 

 

 

 

多分、不安定の初まりは機関誌N 〇 28のレベルの詩について考えたあと
だったと思います。ほんとに魂が抜けたようになって思考できなくなって
しまいました。ひどく疲れていて(精神的に)思いっ切りからっぽでいた
いと思いました。ところが、からっぽになりすぎて想念まで止まってしま
い、頭の中がまっ白になることが増えました。思考を避けたことが原因か
と思ったし、また想念を避けているのも原因のようにも思えました。

 

想念観察の仕方をいつのまにか間違えたかと思い、再び想念を流し始めた
ところ、生気が戻ってくるのがわかりました。

 

ところが今度は真理を求める気持ちが薄れてきました。セ厶ヤーゼ交信記
録を読んでいても、すぐに読む気がなくなりました。

 

真理について考えようとすると、私の中で何かが崩れ落ちるような、力が
抜けていくような感じになり、考えたくなくなりました、

 

 

 

「無理することもないか」と思い、そのまま放っておくことにしましたら、
ますますエスカレートしてきて、しまいには「真理なんかどうだっていい
じゃないか」という思いがあらわれるようになりました。

 

そうしたら、真理がものすごく遠い存在のようになり「どうせ私にはわか

らない」とひどく落ち込みだしました。まるで雲をつかむようなものに思
え、創造を求めることに疑問を覚え始めました。でも、そんな気持ちを打
ち消しながら機関誌を読んだり、セ厶ヤーゼを読んだりしていました。

 

そのあいだ本屋で「宇宙の神秘とUFOの謎」や「異星人との対話」など

の本で、マイヤー事件の真偽を調べたりしていました。それまでどちらか
といえばあまりUFOや宇宙人に興味のない方でした。

 

 

存在するとは思っていましたが、特にどうということもなかったのです。
FUJ I日本を知ってから少しづつ興味を覚え、親しみを感じだしたので
した。

 

そのうち創造に対する自分の認識が誤っていたことに気付きました。

 

 

 

「ああ、そうだったのか、私は勝手に間違った創造をつくりあげていたん
だ」と気付いたものの、まだ気分はすっきりせず、相変らず私の心には創
造への疑問がありました。

 

それは益々大きくなり、ついに無視できなくなりました。そしてある日、
心の底から「何故、創造を求めなければいけないの! ?」と心の中で叫び
ました。

 

その瞬間、私の体を何かあたたかいものがやさしく包みこみました。そし
て急に視界がひらけたようなすっきりとした感じになり、自分が創造の中
にいることを感じました。

 

目の前の洗濯機や(私はこの時、洗濯中でした)自分の手、壁、空、雲が
フワッと自分に押しよせたようで、それらが創造であると実感しました。

 

急につながっているような気持ちになりました。それで、その時は「ああ、
だから創造を求めるのはあたり前のことなんだ」と納得しました。

 

 

 

でも、また少し経つと疑問が心の中によみがえり、すると再び自分の中に

「創造の中にいる」という感覚があらわれ・・・と何度かこれをくりかえ
しました。

 

やがてこの二つの感情(?)は平行線のまま、まるで互いに呼応するかの
ように強まり、私の中でその開きを増していきました。

 

疑問を覚えながら、創造を肌で感じるという奇妙な状態になり、私の意識
の上に交互にあらわれ、私はだんだん疲れてきました。またその間、自分
が愛だと思っていた愛情(特に主人に対して)が、本当の意味での愛では
なかったことに突然気付いたり、幸せを求めながら、それをあるはずのな

 


いところにずっと求めていたことに気付いたり、この現実の世界の中でい
つも幻ばかり追い求めていることに気付いたりして、その度にショックを
覚え、がく然とし、最終的に一体自分は何を求めているのかわからなくな
りました。

 

確かなものってあるのだろうか・・・と思っても、その時は創造の名も虚

しい響きしか感じられず、ますます落ち込みました。

 

 

 

 

それでも私の奥で、私は創造の中で生かされ、周りのものは全て創造でつ
ながっているという、かすかな、けれど確かな実感が存在していました。
その実感が意識の上にあらわれている時は、周りのもの全てが愛しくて、
抱きしめたい!溶け込んでしまいたい!という衝動に駆られました。

 

 

しかしもう一方の気持ちは常に虚しさを覚え「創造なんか求めなくったっ
て生きていられるじゃない。どうせ死ぬ時は死ぬんだし、みんなそうやっ
て生きてるし・・・」なんて思っているのです。

 

創造を信じたいと思いながら、信じきることができず苦しい思いでした。
でも、少しづつ私はわかってきました。

 

多分、私が勝手につくりあげた幻の創造を、創造だと信じ求めてきた私の
エゴ意識が、想念観察などでわずかながら認識しはじめた本当の創造を認
めることを拒否していたのではないかと・・それは他の例えでいうなら、
宗教と真理の様な関係ではないかと思います。

 

 

 

 

そして一昨日、編集部にお手紙を書いているうちに、そのことが明確にな
ってきて、あと一歩足を踏みだせば越えられるのでは、というところまで
きました。そこで元気がでて手紙を書き終えた後で、機関誌No 29の登
場・・・読んでおりますうちに越えてしまいました。

 

特に編集部の“創造でない世界はどこにも無いのでは?”というコメント
が最後に背中をトンと押してくれたようです。

 

今はこの言葉が何の疑いもなく、当然のこととしてすんなり信じられます。

 

実感できます。ずい分気持ちがリラックスしています。安心感があります。
そして、これが最初の頃ひどく疲れていて、からっぽでいたい・・・と求
めた状態であることも今、わかりました。

 

このリラックス、安心感、ゆったりした気持ち・・・。

こうなってみて、ようやく知識と実感(体感?)とのはっきりとした差を

思い知りました。

 

 

 

多分、本で「創造とは〜である」「〜すべきである」と書かれてあること
を必死で身につけようと想像し、わかったつもりになり、どんどん幻の創
造をつくりあげていったのでしょう。

 

気を付けていたはずなのに、知らず知らずのうちにそんなことをしてしま

っていたのです。

 

でもいい勉強になりました。ですから、ちっとも厶ダだったとは思いませ
ん。むしろよかったと思っています。

 

もう自分がどんな位置かなんてことも思いません。だから「これからが本
当の始まり」なんてことも言いません。常に、常に、私は進んでいます。

 

始まりも終わりもわかりません。全ての状態は進化の過程です。ですから
比べることなどナンセンスなのです。位置づけることなどできないのです。

 

無知だった状態を卑下する必要もないし、何か認識を得たからといって得
意になる必要もないです。それがようやくわかってきました。

 

 

 

 

それと今、考え始めていることは“生まれたものは創造の呼気か?”とい
うことです。

 

つまり、表現されているもの、形あるものなどは、呼吸でいえば、呼気な
のかな?ということです。(違うような気もするけど・・・!)。

 

ただ自分の中にわいてくる想念は残りカスのように思えるのです。酸素を
吸って体中に活気を与えたあと、出てくる二酸化炭素のような・・・

 

クリエさんのおっしゃっていたウンコの意味が前はよくわからなかったの
ですが、今は少しわかるようになったみたいです。感じるようになったの
で理屈ではないのです。“創造でない世界はない”と完全に納得した途端
です。他にも多くのことを学んでいこうと思うし、その必要性を強く感じ
てワクワクしています。

 

・・・こんなにたくさんの枚数を書いたのは初めてかな? 長々とおつき
合い下さりありがとうございました。 かしこ

 

 

 

PS -「無限瞑想]って、どうやるんですか?

「瞑想」の中に載ってるのかなと思っているんですけど、もし、そ
うでなければ機関誌に載せるなどで今度教えて下さい。

 

2月28日、エリーナ・メッセージが届きました。それで感想文を書きま
す。ざっと何も考えずに読んだだけなので、感じたこと、自然に思ったこ
となどを書きます。

 

“創造でない世界はない”と納得してから、想念や自我も創造だ、と思い
気が楽になりましたが、一つ疑問が起きました。“じゃあ、なんで想念に
とらわれてはいけないんだ?”ということでした。でも、エリーナ・メッ
セージを読んで自分なりに答えを出しました。

 

“全ては与えられたもの”なんですね。流れてくる想念も日常の動作も、
表情も、出来事も全部“与えられたもの”であって、何ひとつ私自身のも
の(エゴのもの?)というのはないのですね。

全部は創造の活動なんですね。

 

 

「私が考えた」「私が行動した」というのは何一つないわけで、それは全
部創造から与えられた、創造の活動のあらわれなんだな、と思いました。
恐らくそのことを忘れ、自覚することができなくて、その与えられたもの

を私物化し、自分自身の責任で何とかしょうと思った時、そこにエゴが生
まれるのだと思いました。

 

つまり流れてきた(与えられた)想念、思考を自分の中で固定化した時、
エゴが生まれるのです。それは創造のものであって、与えられたものです
から、本当は固定化することはできません。そのまま流さなくてはいけま
せん。

 

想念が流れた時、それを「今、こういう想念を与えられた」と自覚し、感
動し、そのまま又創造に流してお返しすればよいのです。

 

想念観察って、本当はそういう行為のことではないかと思いました。

 

「私が指を動かした」のではなく 「指を動かす動作を与えられた」のです。
ですから全ての動きに創造をみることができる訳です。

 

 

 

また、思考ということについては、私自身の経験から学ばせていただいた

ことを書きますが、あることについて思考する時、それは単なる固定観念
の積み重ねの作業にしかならないのではないかと思います。

 

固定観念を強化する作業です。ですから思考は大事ですが、度を過ぎては
いけません。どんどん一つの観念に偏り、分裂がひどくなります。その思
考も再び創造にお返しするために手放して、流さなければなりません。
決して自分の中に留まらせてはなりません。想念にとらわれるな、とはそ

ういうことかなと思いました。

 

 

“想念は私ではありません”イコール、“想念は創造です”という意味だ
ったのかな〜と、そんな気持ちが流れております。

 

何度も、またエリーナ・メッセージを読み返せば、再び違った見解が得ら
れるでしょう。その分、私は様々な見解を創造から与えられる、というこ
とです。与えられたものは、再びお返しします。感謝という形で・・・

 

私はあらゆる種類のものを受け取る受信体です。とりあえず今、与えられ
ている考えを書かせて項きました。

 

 

 

3月21日、今頃の季節がとても好きです。

最近はできるだけ心をリラックスさせています。今まで、ずい分難しい顔

で、コチコチにかたくなった状態で真理を求めていたように思うからです。

 

心を落ち着けてみると、不思議と心の奧からいろいろ教えてくれる声が聞
こえるので、静かに耳をかたむけるようにしています。それは本当の自分
の声であり、それは何でも知っています。何でも持っているし、いつでも
私に語りかけてくれているのです。

 

知りたいことがあれば、ただ尋ねるだけで答えが返ってきます。耳が聞く
のではないです。私が聞くのです。

 

 

 

今思うのですが、思考するということについて、今まで私は自分の力で何
とか答えを出そうといろいろな考えをひっぱりだしては組み合わせ、排除
し、どんどんいろんな観念をつくりだしては積み重ねるという作業を繰り
返してきたようです。でも、これではどんどん自分から、その対象を離し
てしまうことになると感じるようになりました。

 

考えるというのは、対象を自分の外に置き、あちこちから眺めて、分析し、
納得し、結論づけるようなものではないでしょうか。でも、いつまでたっ
ても、その対象と一つになることはできないのです。

 

欠けていたのは「受け入れる」ということ・・・それをそのまま、それ自

体として、ただ受け入れるということ・・・どう言えばいいのかわかりま
せんが、私はそのために、自分の内からの声をただ素直に聞いて、受け入

れるようになりました。

 

 

 

すると、その方がより理解できるように思えます。
特に「考えよう」と思わなくても、自然にいろいろな考えが送られてくる
ので、ただそれを受け取るだけにしています。その「考え」を引き止めて
みたり、もっと深く知りたいと自分で勝手にいじくりまわしたりしなくな
りました。そういう行為は、自我そのものであると思います。

 

自分で(自我で)答えを 見つけようとしなくてもいいんだと思います。

 

なぜって本当の私はみんな知っているんですから。知らないことなんて本
当はないんです。私はそれを確信できるようになりました。

 

私だって全部思い出せているわけではないし、本当の自分に完全に戻って
いるわけではないけれど、でもわかるんです・・・私は何だって持ってる
し、何だって知っていると! ・・・

 

 

 

今まで、それを見ようとも、聞こうとも、知ろうともしなかったから、わ
からなかっただけなんですね。

 

でも、だからって何も考えなくていいかというと、そうでもないんですね。
判断するのは、考えるから可能なんだと思いますけど、判断するのは、物
事の多様性を知るのに必要だと思います。

 

未分析と分析・・・このバランスをとることが大切なのではないかと思い

ます。結局、この世界って矛盾で成り立っているのかも知れません。この
間も心の声が言っていました。“全ては非創造的、非真理である。しかし、
創造であり、真理なのである”と。

 

全て肯定せよ、しかし執着はするなと、その声は言っていたんですけどね。

他に何を言ってたのか、あんまり覚えていないんです。

 

印象に残っている言葉は“創造に向かうだと?ふざけるな! !では、お
まえは今、創造から離れたところにでもいるのか!創造の外にでもいる
のか!”という言菜です。

 

 

 

・・・要するに、常に私は創造に生きている。私が創造である。

でも、それに気付いていないだけ。創造にかえるということは、今ある状
態の本当の姿に気付くこと、目を向けること。そう言う意味だったんでし
ょうか。やっぱり真実は自分の中にあると思います。今、自分の外にある
ものは全部、自分の中から生まれたものであり、外にあるようにみえるけ
ど、その本体(?)は、自分の中にあるのです。  次号に続く