21世紀人になるために

宇宙の方々の仲間に入るには「想念観察」は必須条件です!!

水瓶座讃歌31 パート4

[目次]

・紫日記 その3   仙田むらさき

 

周りに存在するものは、つかむことのできない幻のようなものなんですね。
立体映像のようなものです。鏡に反射してみえてるものみたい・・・とい

うか、つまり、それ自体は、本体ではないということです。(説明があいかわらず下手ですね・・・ 。

目にみえるものも、みえないものも、そうだと思います。

例えば、幸せとか、愛とか、それらを『得る』とした場合、それは誰かに
よって、あるいは何かによって与えられるものではないんですね。

自らの内に、それらを生まれさせること、自らそれらを発生させること、
それが『得る』ことなんですね・・・このことは、主人との葛藤を通して
わかったことです。

 

私はずっと「もっと主人が私や子供に目を向けてくれたら、もっと幸せな

毎日になるのに」と思ってきました。でも、ふと気付いたんです。

「本当に幸せになるのか?・・・本当は、そんなこと関係ないんじゃないの
か?」と。

どんな状態を幸せというのかもわからないクセに、その時、その時で、空

虚なものにしがみつき、そこに幸せがあると思いこんでいた私・・・

周りにあるものを動かしても、そこに求めても、それらは所詮つかむこと
のできない幻にすぎない、影にしかすぎない。本体は別のところにあると
気付きました。そして最近、それが自分自身の中にあるとわかりました。
極端な話、周りから受け取るものは何もありません。

 

周りにあるものは全て、すでに自分の中にあるからです。

生み出されたものは、もう消えゆくために生まれたのです。うまく言い表
す言業が浮かびません。でも、わかっていただけますよね? ! ・・・周り
もまた自分の中なんです。

やっぱり創造の呼気(吐息)かな、と思います。

吐く、吸って、吐く、吸って、吐く、創造の呼吸です。

 


3月25日

健康水について、若干の報告を致します。

1液は、初めは「ほんとうにきれいになるのかなあ」と思いましたが、使
ってみると、洗い流した時、すごくさっぱりとしましたので、気持ち良か
ったです。すっきりと体の中の疲れも同時に洗い流されていくようで、使
うのが好きになりました。

 

2液は最髙ですね。義母は毎年冬には手の指の皮膚がささくれて、粉をふ

いたようになるそうなのですが、健康水を使用してから、それがなくなっ
たと喜んでおりました。「もう手放せないワ」と大変な気に入り様です。
私自身も、一歳半のわんぱく坊主の世話に追われて、毎日ちゃんと2液を

つける、ということはできないのですが、それでもなるべく使用するよう
にしておりましたら、この間主人に「お前、肌はきれいになったよなあ」
と、しげしげと見られてしまいました。(ヤッタネ!)友だちにもこの間

おすそ分けしましたら、その人も「ニキビが治ってきたよ」と言っていま

した。

 

それと、主人は車やさん(中古車屋さん)で働いているのですが、洗車に
使う洗剤で口びるを荒らしてしまいましたので、2液をつけさせたところ、
効果てきめんでした。

洗剤はアルカリ性で、2液は弱酸性だからでしょうね。

でも、何故か主人の顔につけさせたら、非常にかゆくなったそうで、それ
以来、顔にはつけたがりません。どうしてかゆくなったのでしょうか。
主人は普通の洗顔料を使っているので、その中に含まれている成分のどれ
かと反応したんじゃないかなあ、と考えているところです。

 

B液は、家具のつや出しに効果がありますネ。とにかく重宝しております。

以上、報告はこれぐらいです。

それと、最近いろいろと心の中に浮かんでくることがあるのですが、実は、
それらをまとめて、あることを教えていただいてたんだな、ということに
気付きましたので書きます。

結論だけ書きますと、創造の法則は流れに沿った法則、
表の法則、光の法則が存在するなら、必然的に流れに
沿らない法則、裏の法則、影の法則が存在するのです。
片側だけ真理ということはないのですね。

 


例えば、紙は表と裏があって、一枚の紙として存在している訳です。

滝は一見、上から下へ流れているようにみえますが、それは逆に下から上
へ流れない法則によって支えられているから、可能なのです。

滝の流れの中に私たちが生きているとします。ある人は、滝の流れに沿っ

て上から下へ遊んでいる姿がみえます。又、ある人は下から上へ進もうと
しています。

両者は、それぞれから「滝とはこういうものだ」と、自分なりの理解をも

つでしょう。

 

その次に両者が入れ代わってみます。そうすると、ここで善悪二元論が生
まれます。『流れに沿った方が良い。逆から上がるのは抵抗が大きすぎる。
これは悪いことだ』と。しかし,その次に面者が滝の中から出て、外から

滝を見てみます。

すると実は、流れに沿う=(上から下へ流れる)と同時に、流れに沿わな
い=(下から上へ流れることは無理)によって、その二つを合わせて、ど
ちらが良い、悪いではなく、それが滝を存在させるための条件、性質、事
実に過ぎなかったことがわかるのです。おそらく面者は、滝の中にいる間
は、自分がどこにいるかわからなかったと思います。

 

 

創造を求めるということも、これと同じことではないかと思います。

私はFUJI日本に出合うまで、大体流れに逆らっていたように思います。
そこで受ける抵抗・・・苦しみ、悲しみ等を当然と思い、それが真理だと
思っていました。・・・でも、それはそれで確かに法則に合った真理だろ
うとは思います。そして今度は、宇宙の方々の援助から流れに沿った方向
を示していただきました。すると今度は困ったことに、そちら側が良い、
正しいとして、そちらばかり求める反面、今までの流れに沿わない方向は
悪として否定し、避けようとしてしまいました。

 

流れに沿った方向の方がもちろん喜びや幸せが多くなると思いますが、で
も最後には、そこからも抜け出して、自分がいた場所はどこだったのか、
知らなければならないのでしょうね。

今は、その綱を学習している最中です。宇宙の方々のメッセージで、時々矛盾を

感じて混乱していたのは、きっと善悪観念で創造を求めていたからでしょう。

 

表も裏も本当はないこと、その二つで一つだということ、善悪で表裏一体
であり、そこに創造の法則が存在していること・・・それが創造の法則で

あり、善的な全ての法則、悪的な全ての法則は、創造のもつ性質の一つで
あること、つまり全ては肯定でき、重要であると同時に、全てを否定し、
無視することも出来るということ・・・認識するが、捉われない、肯定す
るが執着しない、得ると同時に手放す・・・この矛盾が調和するところに、
創造への道があるのだと思います。不思議でおもしろいですね。

 

 

( 翌日)・先程思ったのですが、自分と内なる自分( 創造) は、お互いに
助け合って、創造へ進んでいるのではないでしょうか。

自我の役目というのは、この現実世界(三次元世界)で、実際に生きてい
くために、創造に代わって活動を起こすことじゃないかと(アレ?前から
宇宙の人が言ってたことだったかしら・・・)思います。

つまり創造の意志を聞いて、それを行動に移す・・・あくまでも受信体であ
り、自らの意志というのは、本当は創造から与えられたものに過ぎないこ
とを自覚することだと思います。

創造の手足となって働くことにより(これを自覚して生きることにより)
創造と一つになれるんじゃないでしょうか。

あくまでも創造のお手伝い、代行者です。

魂に対する肉体のようなものですね。自我は創造の肉体です。だから自我
も大事なんです。

 

 

・・・初めて、自分の言葉で言えた気がします。アランさんの言葉やセ厶
ヤーゼさんの言葉を借りてではなく・・・、

創造の意志を受け入れ、行動に移す・・・この時、自我は創造になってい
ます。一つになっています・・・ね!

ずっと本当はそうやって生かされてたんでしょうけど、自覚がなかったか
ら創造になれなかった! それだけのことだったんでしょうね・・・、

あっ、また長くなってしまった・・・ !。なんか、この間から心の中に

浮かぶことをそのままポンポン書いているだけだから、全然疲れなくって、
ついつい書き続けてしまいます。では、もうこの辺でやめておきますね。
また今度書きます。

 

4月2 6日、私は最近、毎日子供を公園に連れていくので、さっそく日焼
けが始まってしまいました。実は、私にとっては公園にいくというのは大

変勇気のいることだったのですが、自分で自分を励ましつつ、なるべく行
くようにしています。といいますのは、私は6年前に経験したことが原因

で、ひどい人間不信状態に陥っていて、人を見ると自動的に警戒心と敵意
を向けるような時期もありました。

 

2年前に結婚して世間から離れるようになってから自分を取り戻し、少しずつ人に対してもやさしい気持ちを持てるようになりました。そして最近ようやく新しく友達をつくろうという気持ちにもなり、思い切って私と同じような小さい子を持つママがたくさん集まる公園に行くようにしました。話してみるとみんないい人ばかりですが、やはり時々「人が恐い」という気持ちがよみがえったりして、只今格闘中です。

でも無理をせず、少しずつ自分を変えて行こうと思っています。

 

久しぶりに人と多くさん接してみて、周りは自分の心の鏡だということを
すごく現実的に感じるようになりました。

もしかしたら少し違う意味で捉えているかも知れませんが、例えばある人
を「この人って意地悪ね」とか「この人やさしいわ」とか感じた時、あた

かもその人が、そのような人であるかのように思い込み、そのように見え
てしまうのですが、その時その人は、私の感情(意地悪、やさしい人、な
ど)そのものを反映してくれ、私の想念を体現して、私の前にいるという
ことになると思います。

 

人ばかりでなく、他の周りのもの全てにあてはまることだと思います。
花をみて「きれい」と見えるということは、それが私のその時の想念、心

の状態であるということ。

今まで、私は自分の心、想念、感情と、周りにあるものとの接点が

よくわからなくて、別々のものという捉え方が強かったのです。

だから想念観察は、自分の心の中だけに目を向けることだと思っていたし、
それには一人でいる時、静かに暝想している時が一番だと思っていました。
それと、周りを観察することとは別のものだと思っていたのです。

 

 

でも実は一つのこと、同じことだったのではないだろうかと、この頃感じ
ています。

ある対象をみる(つまり、その瞬間、対象を判断するわけですが)、それ
を観察する、イコール自分の想念を観察することになるのだと思います。
何かをみたその瞬間、同時に想念観察となるのです。全然無理のないやり
方です。非常にスムーズに出来ます。

例えば、ある音が聞こえてきて「うるさいな」と思った時、実際その音が

うるさいのではありません。単に自分の想念の投影としてそのように思え
るだけです。そうすると対象は消え、自分の想念だけが残ります。とても、
とても簡単なことです。

とにかく今思ったことは、想念は自分の心の中に湧いたと同時に、他に反
映し、私はその想念をまた心に映し直して生活しているということです。
自分と対象とは、ある意味では区別できるけど、本当は区別なんて出来な
いものなんじゃないかと思います。自分の投影ですね。

 

誰にとってもそうなんですから、おもしろい仕組だと思います。

頭で考えて混乱するようなことが、実は一番自由な状態なのかも・・・。
いつかそちらに遊びに行けたら・・・と思っております。では、また。

 

 

5月2 0日、まだ5月なのに夏のようですね。本当の夏の時期には秋が来
ているかも知れません。

さて、実は特別お知らせすることは何も無いのですが、わたし、最近少し
づつ変わっていくのがよく判るようになりました。近頃気力が充実してき
たようで、何でも前向きに考えられるようになったし、少し堂々と人と対
することが出来るようになりました。とにかく毎瞬毎瞬自分らしく居られ
るようにと思っています。

 

前は自分の行動をいちいち自分で判断して、変に気を使って抑制することが多かったです。特に何故だか自分らしく生き生きとすることに罪悪感がありました。何か出来ることや得意なことがあっても(特に相手の人が出来ないときは)出来ないフリをしたり、

自分の意見をハッキリさせない時もあったんです。いわゆる現代っ子病の“人よ
り目立たない”ことに気をつけていたのです。いつも回りを見てから動く
という感じでした。

 

でもそれをどうにかしたくても、何をどうすれば良い
のか全く判っていない状態だったのです。それがこの間、自分の抑制され
た部分、もう一人の自分をはっきり認識することが出来ました。今はその
部分を開放し、うまくバランスを取るように努力しています。もう「自分
の全面開放」をしていい時期が来たと判ったのです。

 

そう・・・時期ってあるんですね。今がその時であると何故だか判りまし
た。もう抑圧する時期は終わった! 隠す時期は終わった! ・・・これから

は全てを開放する時期がきたんだって。してもいい時期がきたんだって。
そのせいか急速に私は変わりつつあります。変わると言ってもバランスを
とっているだけで、私であることには全然変わりは無いのですが。

その間、私はある考えを持つようになりました。

「今を肯定し、自分を愛する」と言うことです。

 

 

自分を開放するにはどうしたらいいか考えた結論です。
それと“深い部分の私”から“貴方は愛なんですよ”と
いう言葉を受け取ったからです。

私はいろいろ考えて、未来は現在であり、過去であるという結論に達しま
した。そして現在を肯定することは全ての過去を肯定することになり、同
時に肯定的な未来を生み出す!・・・とも思いました。

私は余りにも自分を否定し過ぎていたから、抑制が強かったのです。

開放するなら肯定し、全面的に受け入れなければ・・・善悪観念が強すぎ
たんですね。

今が在って未来が在る・・・未来の中に今が生きている。全ての過去が内
包されて生きている。今は過去であり、未来なのです。

 

最初は過去の作り直しも考えたのです。

現実というのは、その人の捉え方次第でいくらでも変わるものであり、

「絶対的現実」と言うものは無いと私は思います。だから記憶なんて全く
当てになら無い。全く不要と言っていいほどです。

自分の判断が絶対であるという無意識的な信頼は、自分の判断に基づいて

現実を決定していきます。それ以外の現実などまるで見えません。そして
それが《記憶》として残されるのです。

 

 

過去の悲しい出来事というく記憶>を引っ張りだした時、今なら違った捉
え方を出来るかも知れません。それを「悲しい出来事である」と決定した
のは当時の私でしかないからです。それは絶対的なものではないのです。

どう捉えたか、どう感じたかで、同じ出来事から多くさんの現実を作り出
せます。く記憶>はその時の私を、再び確認できる写真みたいなものに過
ぎません。その時の現実は、私のその時の心の状態によって造られたもの
に過ぎない。全く自己中心的な不確かなものです。

それが過去の記憶として残され、現在の生活に影響を与えているとしたら、
なんだかバカらしくなりました。もしも否定的に造った過去の現実によっ
て今の私があるなら、その過去を変えてみよう・・・そう思ったのです。

でもそれから又少し考えて、それならいっそ「今の私」を肯定したら一番

手っとり早いじゃないかと思いました。今の私の中にそれまでの過去が生
きているんですから。そして未来の私の中に、今と過去とが全部含まれて
生きている。

 

 

未来・・・というより、私全てのものは、既にもう存在しているんじゃあ

ないかと思うのです。過去も現在も未来も全部同時進行で存在していると。
それを“大きな私”が分裂(?)して、一つ一つ体験しているんだろうと

思います。

その順に過去、現在、未来と成っているんじゃあないでしょうか。

でも幾通りもの現実は、本人が自由に決定(選択)出来るの
です。一瞬一瞬に、数え切れないほどの扉があり、その一つ

を選択して進んでいくような•••それはその時の本人の
価値観やものの見方、考え方などで決まるんです。

ですから、もしもその人のパターンが判れば、未来も予測が
つく訳です。決まった未来が在るというわけではないと

思います。でもそれは又別の見方もできるでしょうけれど。

とりあえず今はこのように考えております。

 

 

くだから結局他人は“ 大きな私” から分かれたもう一人の自分
だということです。別のスタート地点から、すでに存在する
様々な可能性を体験している一人です。一つの山を別の方向

から登っている仲間ですね。そして元々一つですから、意識
の底でつながっていて、知らないうちに情報交換しているん
でしょう。

とにかく私は、気持ちを未来や過去にバラバラに向けずに、
常に今に焦点を合わせるよう、頑張りたいです。

ところで私はこの間、チゃネリングのセミナーを実際に聞い
てみたいなと思って、案内書を送って頂きましたが、読んで
いるうちに段々冷めた気持ちになりました。

费用が髙かったせいもあるかも知れませんが、妙に冷静な気持ちになって
こんなことを思いました。

 

 

援助してくれる為にチャネリングという方法をとっている様々な存在は、
私達地球人が最終的に援助を必要としなくなる為に来てくれているんだと
思います。宇宙の人は地球人の自立のために援助してくれているんですよ
ね。なのに私ときたら、逆にのめリこもうとしていたんじゃあないか・・・
おんぶしようとしていたんじゃあないか・・・そう思ったんです。

セミナーに行けば素晴らしい話が聞けるでしよう。そして又聞きたくて行
きたくなるでしよう。でもそれは単に心地良い体験を何度も味わいに行く
だけです。同じところをぐるぐる廻っているだけです。

• • •ここでFUJ I日本のことを思い浮かべました。私はもしかしたら、

既にFUJI日本に対して、オンブし、甘えっぱなしで満足していないか•• • 

宇宙の人々のメッセージはすばらしい、とても大切だ、だから求める。
でも素晴らしいという気持ちはどこから出てくるのでしょう。何故そう思
うのでしょう。

 

 

宇宙の人のメッセージから何がしかの真理を知って、成長したような気に
なっているけれど、それは錯覚なんじゃあないだろうか。

宇宙の人に対する甘えの気持ちの中での錯覚に過ぎないのではないでしょ
うか。その証拠に、もしも今、急に宇宙の人たちがメッセージを送るのを
止めると言って去ってしまったら、私はきっとものすごくがっかりして、
暗闇の中に戻ってしまうような気持ちになるでしょう。それでは私はもう
宇宙の人に依存し甘えています。

 

「素晴らしい」という気持ちに捉らわれ、同時に、宇宙の人に捉われてい
るのです。執着です。

宇宙の人から教わる状態に慣れ、甘えているならば、私はいつまでも最終
的に自由な存在にはなれないでしょう。「教わる」と言うことを、正しい
位置から認識し直すべきなんでしょうね。正しい意味を知らないんだと思
います。もっと自立しなければ、宇宙の人も困っちゃいますよね。

 

 

6月15日。暑いですね。半分日射病で頭痛がしています。

ところで、私は優劣意識について、機関誌の文中で、何か判ったようなこ
とを書いた気がしますけれど、最近又、疑問に思い始めたのです。

確かに今は優劣意識について自分なりに解決して、その意識は薄れたよう
に思っていました。でも・・・本当に解決出来たのか?

形を変えただけじゃあないのか?・・・と思い始めたのです。もしかしたら

FUJI日本と出会ってから、少しは成長した今の自分に満足して、ある
程度、いい評価を自分でつけているのかも知れない。そういう気持ちが優
越感に変わって、余格のあるような状態になっているだけかも知れない。

だとすれば、私は相変わらず優劣意識の中を行ったり来たりしているだけ
と言うことになります・・・とここまで考えて、「そうだ、どんな状態に

も感謝だっけ。」と、こういうことで悩んでいる自分に感謝、優劣意識の
中に居る自分に感謝、感謝している今の自分に感謝、• • •としていった
ら、アラッ不思議、『ありがとう効果』は私にもバッチリ効きました。

 

 

そして思ったんです。こういう風に自分を批判することが優劣意識なんじ
ゃあないだろうかと。

批判している自分はきっと優越感を持っていると思います。その反面、批
判されている自分は劣等感を持っているんです。どちらも自分で同時に起
きる感情です。でも言葉は一つ、「どうして私ってこうなのかしら•  •  •」

です。この同じ言葉でも片方は非難し、片方は落ち込むのですが、結局同
じことですね。

優越感と劣等感は「優劣意識」と一つの言葉に出来るように、同じ次元な

んですね。元が同じところから分かれただけなんですね。

「ありがとう」という言葉は、優越感も劣等感も同じ位置に置いて、同じ
ように感謝できる行為ですので、本当の意味で優劣意識を消すことが

出来るんだろうなと思います。

でも自分を批判するから向上するという段階もありますよね。

自分を客観視出来るようになった初期に現われる必然的な意識で、成長す
る過程で必要なものなんだろうと思います。

 

 

この優劣意識を成長のためにフル活用していくところまでいったら、自然
と必要なくなるんでしょう。自分をある所まで成長させてくれる為に必要
なものと思ったら、嫌悪することもないですね。むしろ感謝すべきですね。
きっとこれはクリエさん言うところの、「記憶が蘇っただけ」の理解で、
エネルギ"-を腹に納めてはいないんだろうなあブツブツブツ・・・・・・・

とりあえず私は一つのことに「あ一でもない、こ一でもない」といつまで
もいじくりまわしていて、結局最後にはよく判らなくなってしまったりす
るので、もっと素直に受け入れるようにしようと思います。子供ってそう
いう理解の仕方をしますよね。理屈抜きで受け入れ、認め、活用する• •
そういう風に出来たらいいなと思います。

 

PS •今2人目を妊娠中なんです。つい嬉しくて書かせて頂きました。
予定日が来年1月20日だから、私は23歳で2児の母です。嬉しい!

 

**  21世紀を演出するお子さんの誕生、素敵ですね!

編集部では宇宙の人々に次のように言われ続けています。

「赤ちゃんのようであれ。そして目覚めていよ。」 •••と。

そして2月程前、クリエさんからM助さんを通して«無心»と言う
文字をプレゼントされました。

赤ちゃんは«無心»にいますねエ〜 私達も«無心»に居ましょ

う・・・トッテモ、ラクチンミタイ• • •
まず想念観察、そして«無心»へ・・・・・