21世紀人になるために

宇宙の方々の仲間に入るには「想念観察」は必須条件です!!

水瓶座讃歌31 パート6

次の文章は想念観察についての疑問点にラジニーシが、答えているもの

で、和尚タイムズ、63号・(03-5729-1821-和尚イヤー発行月刊誌)

からの抜粋です。参考になると思いますので、掲載させていただきまし

た。和尚イヤーの月刊誌は、大きな書店では販売されているそうです。

 

[目次]

観ていることは 熱くもなければ 冷たくもない   和尚(ラジニーシ)

 

 

質問・観ていることは、冷たい現象のように感じますが、

 

答え ・冷たいのではなく、涼しいのだ。そしてその差は大きい。

 

何かが冷たいときは、人はそれを無関心に観ている。配慮している

のではなく、無関心だ。涼しい現象というのは違う。配慮している。

無関心ではない。だがそれに執着してもいない。取り憑かれてはい

ない。それに熱くなってはいない。興奮していない。

 

二つの極端ーー無関心と興奮ーーを避けることが出来れば、そこに

涼しさが、静かな涼しい、落ち着いた感じが現われる。

 

観ていることは冷たくある必要はない。冷たいようなら、それはも

う観ていることではない。無関心になってしまったのだ。見守って

いない。

 

 

 

そして貴方がたは、自分が冷たいか熱いかのどちらかになれること

はよく知っている。涼しさはちょうどその中間に存在する。

 

涼しさは正にその二つの中間点だ。関心はあるが興奮していない。

無関心でなく、配慮しながら見守っているが、それに愛着していな

い・・・難しい。

 

何故なら、貴方逹が知っているのは二つの感じーー冷たいと熱い感

じだからだ。貴方達がこの三番目の感じを全く知らないのは、極端

から極端へと動くからだ。憎むか愛するかのどちらかだ。

 

慈愛ーー貴方はそれが何かを知らない。慈愛とは単なる言葉にすぎ

ない。意味はないらしい。それは涼しい言葉だ。

 

 

 

覚者の所へゆけば、彼は貴方を歓迎するだろうが、それは熱い歓迎

ではないだろうーーそれは全く冷たくもないだろう。それは涼しい

歓迎だろう。彼は心から貴方を迎えるだろうが、興奮していない。

貴方がそこにいなかったら、その貴方の不在ゆえに彼が悲しむとい

うのではない。そうではない。彼は同じように幸せだろう。

 

貴方がそこにいれば彼は幸せだ。

 

貴方がそこにいなくても彼は幸せだ。

 

彼の幸福は不変だ。それが涼しいのはその為だ。

 

友達が会いに来たら、貴方逹は興奮するーー貴方は熱くなる。が、

いいかね。人は長く熱いままでいられない。熱さとは疲れるものだ

からだ。

 

 

 

直に貴方は「いつこの男は帰るのだろう?」と考え始める。まず貴

方は熱くなる。それから貴方は冷たくなる。最初友達が来てくれた

ことで貴方は幸せになる。そして今度は彼が帰った時、幸せになる。

 

覚者はただ幸せなままだ。友達が来てもこなくても、何も違わない。

彼の幸福は不変のものだ。彼は涼しい。

 

そして涼しい愛を理解することは、本当に偉大な体験だーー難しい。

 

何故なら、貴方のマインドは涼しい愛を冷たいと解釈するからだ。

貴方逹は涼しい言葉を知らない。冷たい言葉しか知らない。

 

貴方にはその覚者は冷たく見えるだろう。が、そうではない。

 

光明を得た人はすべて涼しい。涼しいのは、彼らは人にかき乱され

ることがあり得ないからだ・・・どんな風にも。

 

貴方がたには彼らをもっと幸せにすることは出来ない。もっと不幸

にすることも出来ない。彼らが涼しいのは、彼らが中心に座ってい

るからだ。

 

 

 

質問・自意識と自己認識の違いについて、教えて下さい。

 

答え・自意識は病いであり、自己認識は健康だ。言葉は同じようなことを

意味しているように思われるが、では何が違うのか。

 

自意識では力点は自己にある。自己認識では力点は認識にある。そ

の両方に自意識という同じ言葉を使うこともできるが、力点が自己

にあるならば、それは病いだ。力点が意識にあれば、それは健康だ。

非常に微妙だが、非常に大きな違いだ。

 

自意識が病いなのは、絶えず自分について意識しているからだ——

人が自分のことをどう思っているか、みんなが自分をどう評価して

いるか、みんなの意見がどうか、「みんなは私を好きだろうか、嫌

いだろうか、私を受け入れるのか、排斥しているのか、私を愛して

いるのか、いないのか」と。

 

 

 

常に自分が、私が、ヱゴが中心にある。これが病いだ。

 

エゴは存在する最大の病いだ。そしてもしその焦点を、力点を、自

己から変えたら、その焦点は意識に向かう。そうなると「みんなは

私を受け入れているのだろうか、排斥しているのだろうか」と心配

はしない。人の意見がどうであろうと、問題ではない。

 

今や貴方はあらゆる状況で覚めていたいと思う。

 

人が排斥しようと受け入れようと、人が愛していようと憎んでいよ

うと、人が自分を聖者と呼ぼうと罪人と呼ぼうと、そんなことは問

題ではない。彼らが何を言おうと、彼らの意見がどうあれ、それは

彼らのことであり、彼ら自身が決めるべき彼らの問題だ。

 

貴方はただ、あらゆる状況で覚めていようとしているだけだ。

 

誰かがやってくる。貴方はおじぎをする。

彼は貴方のことを聖者だと信じている。

 

 

 

貴方は彼らが何を言おうと、彼らが何を信じようと、気にしない。

 

貴方はただ、彼が自分を無意識の中に引き込むことが出来ないよう

に、油断なく覚めているーーそれだけだ。

 

そして誰かがやって来て貴方を侮辱し、貴方に古靴を投げつける。

彼のしていることにわずらわされてはいけない。貴方はただ、何も

のにも触れられずにいるようにーー彼が貴方を引き込むことが出来

 

ないようにーーただ油断なく覚めていればいい。

 

称賛の中でも非難の中でも、失敗の中でも成功の中でも、貴方は同

じままだ。自分が覚めていることを通じて、貴方はどんな風にもか

き乱されることのあり得ない静寂を達成する。貴方は人々の意見か

ら自由になる。これこそが宗教的人間と政治的人間の違いだ。

 

 

 

政治的人間は自意識だ。力点が自己にある。常に人の意見を心配し

ている。彼は人々の意見に、彼らの票に依存している。つまりは彼

らが主人であり、決定者なのだ。

 

宗教的人間は自分自身の主人だ。誰も彼に代わって決めることは出

来ない。彼は貴方逹の投票にも、あるいは貴方逹の意見にも依存し

ていない。

 

貴方逹が彼のところに来るならそれでいい。もし披のところに来な

いならそれでもいい。何の問題にもならない。彼は自分自身だ・・・

 

これを覚えておきなさい。

 

自分に力点のある自意識は、深い病い、深みにおける病いだ。人は

そこから抜け出すべきだ。

 

意識に力点のある自意識は、この世で最も聖なることのひとつだ。

何故ならそれは、健康な人々、自分の中心を達成した人々に属する

ものだからだ。

 

彼らは意識している。気づいている。

彼らは空っぽではない。満たされている。

 

** 言葉の表現方法が多少違っていますが、内容は貴重な想念観察(内観)に関

した事で、全く私達と同じ事を言っています。照合させながら理解

して頂くと、更に深い味わいを得られると思います。 編集部