21世紀人になるために

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レベルの歌 ア・ラン・ラジニーシ・合同

水瓶座讃歌32より

 

レベの歌

ランラジニーシ合同

 

こういう話を聞いたことがある。

 

老人と孫が仲良く連れだって池に釣をしに行っていた。老人はその池の素

晴らしさを孫にとうとうと聞かせてあげたものだ。孫も老人の話を感動し

ながら聞き入ったものだ。釣った魚はその日の食卓に使用する分だけもら

い、不必要なものは池に返す。

 

なかなか釣れない時は、その場所にしがみつかないことなど、老人の経験から伝えられるかぎりのことを孫に伝えたものだ。

ところが或る日崖崩れが起こり、老人のこよなく愛した池は無想

にも消えてしまった。老人はもう孫に伝えてあげる何かを失ってしまった

かのように肩を落し、本当の老人になってしまった。しかし孫は、釣る興

奮を味わいたくて新しい池を探した。

 

それはとても素晴らしい所だった。そして老人をそこに連れていってあげ

たいと老人を誘った。しかし老人は孫のやさしさに感謝しながらも、その

池には興味を示さなかった。

 

何故ならば、老人にとってあの池こそがその全てであったのだ。それ以上

の池が在るなんて信じられないのである。

 

孫は池を愛していたが、彼にとって池は池なのであって、魚が釣れればど

こでも良いのである。しかし老人の愛していたものは、池そのものの美し

さではなく、池に映る老人の愛着する心を老人は愛していたのである。

 

この違いが判るだろうか。確かこのような内容の話だったと記憶している。

 

 

 

そう言えば、こんな話を聞いたことがあった。

人の役に立ちたいと寸暇を惜しんで勉強し念願の看護婦になった。

 

母親が病弱であったために、そしてその病弱な母親を励ましつづけた看護婦の真摯な姿に感動し、彼女は看護婦を目指した。

 

そう、ナイチンゲールのような素晴らしいことだ。

 

そして期待に膨らませながら病人に尽くした。

 

しかし現実というものは酷なものである。彼女の思いと裏腹に、全てが実

務的である。病人を物としか見ないその現実に対して、彼女は深い悲しみ

を覚えた。誰しもが経験することだろう。そして彼女は真実の看護目指し

て理想の世界に旅立った。それは難民救済の看護である。

 

真実の看護を目指して、彼女はその様な行動をとったのである。何と素晴

らしい生き方だろうと、皆さんは感じるかも知れない。

 

私にはそんな勇気は無いと感じる人もいるだろう。しかし私に言わせれば、

この女性はただのバカである。何故ならば、そのような理想を持たなけれ

ば、在るがままの心境で、つまり、霊性の姿そのものとして働けたのに、

なまじ理想など持ったがために、彼女は苦悩の種をわざわざ自分で撒き散

らしながら、自分で刈りとっているのである。

 

 

 

さて、この私の表現に読者は反発を覚えるかも知れない。

 

しかし理想という意味が、人に尽くしたいという意味が、人の役に立ちた

いという意味が、いかにそれが争いの元凶になっているかを理解すれば、

判るはずである。

 

やり遂げること、これこそ最も馬鹿な人間である。やり遂げないこと、こ

れもまったく馬鹿な人間である。

 

 

 

かなり前に、こんな話を聞いたことがあった。

 

3歳の可愛いい盛りの子供が亡くなったそうだ。私の友人も宇宙船に乗っ

て弔問に出掛けたものだ。それは可哀想なくらい可哀想だった。

 

悲しみは悲しみとしてあっていい。悲しみが無く、何でも喜んでいるのも

味気ない人間だと私も思う。

 

半年後、私の友人がその母親のことが非常に気になったらしく、宇宙人の

友に言わせれば、そのような悲しみのテレパシーを受信したとのことで・・・そして宇宙船に乗って彼女に会いに行った。

 

彼女は非常に喜び、そして悲しみを乗り越えようとしているその姿がとて

も健気に思え、はその彼女の悲しみが癒えるように、力になれないもの

かと考えた。

 

そして彼女に対して、私が貴方の悲しみを癒してあげようと伝え

彼女はとても悦んだそうな。

 

 

 

 

そして彼女の手をひっぱり、亡くなった子供の墓の前まで連れていったら

しい。しかもテレポテーションでだ。

 

彼女はひどく興奮した。その瞬間は彼女はひどく感動し、テレポテーショ

ンという初体験に子供のように喜んだ。彼は思った。悲しみ癒えたりと。

しかし墓石の前に立った瞬間、彼女は膝から崩れ落ち、嘆き悲しみ始めた。

は困った。

 

しかし、彼は任務に忠実な男である。彼女の悲しみが癒えるまでは、プレ

アデスに帰らないと誓った。

 

そして彼の親切心は、墓の中に在る子供の骨を取り出し、その母親の前に

それを投げ捨てたのであった。披女の悲しみは癒えたのだが、それに替わ

ってメラメラと憎悪が湧いてきた。

 

何てひどいことをする人間なんだ。私は貴方を許さない!」

はこう言ったもんだ。

 

「貴方の子供に対する愛情は、どれほど深いか理解できます。私の行為を

許して下さい。

 

 

 

そして披はその骨に服を着せてやり、靴を履かせてやり飴も買ってあげ

た。そして彼女に「子供を連れて帰りなさい。と言ってあげた。

 

何という創造の愛なんだろう!・・・私は友人の愛に感動した。

 

彼はプレアデスに帰れば、間違い無く国家勲章を貰うことだろう。そして

その後、彼女はどうなったのだろうか。

 

誰にも相手にされないジメジメとしたバカな女として一生過ごしたそうな。

彼女の母体は、いつでも子供を産むことが出来るのに。

 

これを宝の持ち腐れという。

 

そう言えば、こういう話も聞いたことがある。よく聞く話だ。

どうすれば創造と一つになれますか?

 

感謝の素晴らしさは判るのですが、深い感謝が出来ないのです。

どうすれはそうできますか?

 

このような疑問を、いずれ貴方は愚問として理解できる日が必ず来ること

だろう。

 

だからこそ、人に質問する時は、“ここのところが疑問なのですが”と聞

かないようにしなさい。

 

ここのところが愚問なんです”と聞きなさい。

 

そうすれは私はこのように答えてあげることが出来る。

愚問だったら聞くな。”

 

 

 

貴方が月を見る時に、月そのものの美しさを見ているのではない。

それは視覚に映る月を美しいと錯覚しているのである。

 

花を美しいと錯覚しているのである。何故ならば、貴方は幼い時から、月

とはこういうもんであると教わってきた。

 

ある人は、うさぎが餅を搗いていると聞いたはずだ。

 

ま、いろいろなイメージを皆さんは持っているはずだ。だからだ、皆さん

の見ている月は、月ではなく、イメージなんだ。

 

皆さんの見ている花は花ではなくイメージなんだ。だからバカな質問をす

る人間がいるもんだ。

 

「この花は何という名前ですか?

 

この質問こそ愚問であり、愚問である。

 

そして「この花はこういう名前です。」「ああ、きれいな花ですねとう

 

なづいてしまう。それが皆さんにとっての真実であり、常識であり、人生

の楽しみだと感じているのである。そしてその不真実がなかなか見えてこ

ない

 

不真実を取り除けば、そこにはいつも青空が心一杯満ちているというのに。

 

 

 

今日は素晴らしいお話を聞けました。

 

今回のレベルの歌はとっても深く、競みやすく、うなずいてしまう個所

いくつもある。

 

よし! 手紙を書いてF U J I 日本に感動しました! 目が覚めました!

 

と手紙を出そう” ・・・思わず行動してしまう人も居るかも知れない。

それはそれで結構、大いにおやりなさい。楽しみなさい。

 

 

 

 

ただ注意して欲しいのは、このメッセージを読み、少なからず理解し得る

のであるならば、貴方はもう目覚めた人である。しかし、貴方はそこに満

足せずに、また何等かの満足感を求めて、あくせくしているのかも知れな

い。

 

貴方が理解し、うなずくのは、真実そうしているのではなく、このような

話を聞くことによって、理解しなければならない、判りたいという欲望が、

つまり、そのイメージの世界が、そのように反応しているだけなのである。

つまり、全て影のしわざである・・・ 判るかな?

 

 

 

しつこいようだが、こんな話を聞いたことがあった。

 

瞑想中、深いエクスタシーにおそわれたそうな。

これだ!”と直感した。

 

あんな素晴らしい感覚はこの世のものとは思えない、それは素晴らしい体

験だが、その人間はその後も、あちらこちらをグルグル訪問している。

結局、イメージの感覚を自ら造って、その中に埋没しているということに

なかなか気付かないものである。

 

私から見ると、ただ単に、足ることを知らない欲望の権化にしか映らない

のだ。

 

 

 

貴方が一文無しだとしよう。

 

1万円の収入がどこからともなく入った。嬉しい!

 

そしてその金が無くなるに従って、不安に襲われる。そしてその人は永久

に一文無しのまんまだ。

 

ただ、嬉しいだけでよいのである。使えば無くなるのである。

この当たり前のこと・・・これが在るがままである。

 

しかし頭脳は考える。こんどいつ入るんだろうかと。

だからその人はそのまんま-------------

 

さて、今の例えは先ほどのエクスタシー種族のことを言っているのである。

その感覚が消えていくに従って、むなしさを感ずるだろう。肉体の重さも

感ずるだろう。

 

真実の感覚はとても軽く、そこに肉体の感ずる重さは無いと、人に説教し

ているのかも知れないね。

 

 

 

 

私に言わせれば、そんなことごちゃごちゃ考えずに、スッ一と死ねば、一

番楽だと思うのだが、それが出来ないのだ。何故ならば、その人間たちは、

もっと強い感覚を欲している。これは図星だ。鋭い指摘だ。耳が痛いこと

だろう。足ることを知れ!

 

人生とは、今を生きること。しかし求める人間は、今を粗末にしている人

間である。

 

そして未来に素晴らしいものが必ずくるんだと信じて疑わない人間たちで

あるそのために私は今の人生を犠牲にしているのである・・・これこそ

馬鹿な人間である。これこそ界である。

 

今を生きるというのは、それ程難しいことであろうか?

一ついいヒントをあげよう。

 

今を生きようと真剣に祈ってご覧なさい。

 

貴方逹の見ている未来の貴方とは、今の貴方の反応にしか過ぎないのだか

ら。

 

熱心に勉強している皆さん。

 

これと言った収穫が無いまんま、勉強している皆さん。

 

貴方逹に勉強させている、その原動力、収穫が何も無いのに、えんえんと

土の無い所に種を撒いている皆さん。

 

続けていれば、未来にいいことがあると思っているのかね。

馬鹿な人間を早く卒業しなさい。

 

皆さんのやっていることは、創造にかこつけた欲望の追及にしか過ぎない

のだから。

 

貴方の感じる落胆こそが、貴方にとっての唯一のグルなのである。