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納得を超越した人生について   光真人

 

納得を超越した人生について

光 真人(こうしんじん)

水瓶座讃歌NO.32より

 

人は生きる為に、多くの“意味”という荷物を持ってます。

 

いつからそのような“意味”という荷物を持つようになったのかは誰も気

付かないはずです。気がつけば、その様になっていたわけです。

 

人間は“苦悩”という問題から避けて通ることは出来ないと思います。

究極、“苦悩”を克服する人間が光真人と言えます。

 

現実の様々な問題を解決したいと考える人が居ます。それがその人にとっ

ての旅の始まりです。

 

満たされない日々を解決したいと思う人が居ます。それがその人にとって

の旅の始まりになります。

 

人間とは何なのか、そのような考え方が、生きる上において何の役に立つ

のだろう・・・そのように考える人が居ます。それがその人にとっての旅

の始まりかも知れません。

 

人間はいろいろな問題を抱えています。

 

生きるということは、同時に問題を生きるということにもつながります。

それを避けて通ることは誰にも出来せん。

 

問題が無いように見える人が居るかも知れません。しかしそれは、問題が

無いように見せているだけで、それが問題なのです。

 

問題を抱えて生きることは恥ずかしいことではありません。

 

人生とはーー 人が生を生きるということは、問題を生きるということなの

ですから。

 

そしてその問題は、苦悩という名で古代より呼ばれ、人の記憶として伝承

され、今日に至っております。その克服こそが、貴方がこの世に生を与え

られた唯一の意味なのです。

 

では苦悩は如何にして生まれてくるのでしう。

 

 

 

ここが問題です。それについては答えたくはありません。しかし答えまし

う。

 

苦悩は人生が連続に見えるところから始まります。

 

苦悩は過去現在未来があると思うところから始まります。

 

苦悩は原因結果があると思うところから始まります。そして苦悩は納得す

る人生を生きようと願っています。

 

納得する人生とは、どのような人生なのでしうか。

 

人はーー 人間は防御します。自分を守ろうとします。この防御本能という

ものが、納得する人生を求めています。では、防御本能という精神作用は

真実あるのでしうか 答えは否です。ありません。あるように見え

ているだけなのです。それは人間が生きる上において、生きていく方法論

を無意識に学んでいきます。そしてその無意識に学んだ方法論の世界のみ

で、人生を生きようとします。

 

これは無意識が顕在意識に上がったときに、精神の同化作用が始まり、人

生とは、こうあるべきだという囚われの観念を刻みます。それがその人の

人生の全てであり、それが人生を詰らなくさせている最大の理由なのです。

 

 

 

人生とは、本来単純に出来ているものです。

 

単純な人生とは、どのような人生なのでしょうか。

 

それは喜びの人生です。それは幸福な人生です。それは主義主張の無い人

生です。それは自分の考えに自信の持てない人生です。それは自分の中に

確信に満ちたものが何一つ無い人生です。それは形容しがたい運命と言え

ます。

 

大根を引き抜くと泥がついています。そのままでは食べられません。洗い

ます。それが単純な人生です。

 

部屋に埃が溜っています。へやがきれいになります。それが単純な人生で

す。

 

お皿が汚れています。洗剤を付けて洗います。きれいになります。それが

単純な人生です。

 

汗をかきました。身体がべとべとします。洗います。それが単純な人生で

す。

 

貴方が会社に向かいます。机の上が汚れています。整理しました。気持ち

良く仕事に入れます。それが単純な人生です。

 

子供がもう以前の服は着られなくなって居ます。あっと言う間に大きくな

ります。新しい服が必要です。それを買いに行きました。それが単純な人

生です。

 

人と人が集まります。そして去っていきます。人が集まると部屋が汚れま

す。

 

きれいにします。それが単純な人生です。

 

皆さんは地球に住んでいます。いえ、正確にはやっと住めるようになった

のです。何故ならば、地球にはもともと人は住んでいなかったのです。誰

も居なかったのです。では何故居なかったのでしょう。答えは一つです。

 

住める環境ではなかったからです。そして長い時間をかけ、地球は人間が

住める状態にまで地球自身を育て上げました。しかしまだそれは荒々しい

剥き出しの自然のまんまです。

 

 

 

そして古代の人は更に長い年月をかけ、人が人として暮していける空間を

創造してきました。そして今、皆さんが生きておられるわけです。

 

ここには長い時間をかけ、自然というホコリを取りながら人が住めるよう

になったのです。

 

ここで心の中に深い何かをキャッチした人が居ます。その人は納得を超越

した人生を理解した人です。悟りです。そしてまだこの文章の言わんとし

ていることが掴めずに、頭でごたごたと考えている納得しなければ気がす

まない貴方のために次の文章を続けて書くことにします。

 

今、私が述べつづけてきたことは、皆さんが生活の中で当たり前に子供の

ころより行ってきたことです。形として行ってきたことです。そしてその

形として行ってきたことの深遠さを感じ取れる人は、あまりいません。

皆さんは心の力をまだよく理解していません。

 

«想い»という力が現実を造っていきます。

 

人を憎めば、そのように憎んだ気持ちに成り切れるものです。

苦手な人にあえば、常に苦手な気持ち成り切れるものです。

 

価値観の異なる人に出会えば、いつまでもその印象を持ちつづけるもので

す。

 

20年経っても、貴方の気持ちはその時のまま、何も変っていません。

これが貴方の苦悩です。

 

 

 

苦悩を苦悩として感じ取れる人は、幸福な人です。その幸福な人に私は助

言をしましょう。

 

心の中に育ってしまった目に見えない雑草を、いつまでそのまんまにして

おくのですか?

 

目に見えない心の世界の貴方はほこりだらけ、傷だらけ、お風呂にも入っ

ていないので、とても臭いますよ。

 

朝起きて歯を磨くことに、どのような納得が必要でしょうか?

汚れた体を洗うのに、どのような納得が必要でしょうか?

 

心も体と同じ、埃の溜った部屋と同じ、常に洗うことです。掃除をするこ

とです。この当たり前のことを、当たり前にできる道を精進と言い、それ

に成りきってしまい、成りきった自分さえも超えた人を仏陀と言います。

掃除をするのに、いちいち考えたりはしません。勝手に手足が動き、部屋

がきれいになるのです。

 

 

 

 

心の掃除も同じことなのです。勝手に手足が動き、心は掃除されて行き、

いつも晴れ晴れとしているのです。仏陀になるのはそれ程簡単なことなの

です。

 

これを創造との一体化というのです。

 

な一んだつまらないという人もいるかも知れません。

 

そのつまらないと想う気持ちが、その人にとっての苦悩なのです。そして

それに気付いていないだけなのです。

 

人は朝目が覚めて、生まれます。夜、目をつぶり死んでいきます。

 

一日が生と死であり、変化であります。その一日に人生80年が凝縮され

ています。一生生きれば、様々な埃が雑草のように群生して人生を暗く陰

湿なものにしてしまいます。だからこそ、雑草を常に刈り取って下さい。

 

この状態をただ行う・・・無碍自在むげじざい)というのです。そしてそのような生き方を行うことによって、自由で自在で、どの様な変化の波が貴方に

降りかかってきても、雲の上に乗って空を走る孫悟空のように、雑草とい

うエゴを足元に置き、波を乗るサーファーのように、すいすい、すいすい

と力まずに、幸福な人生を望まなくても、生きていけるのです。私は当た

り前のことを当たり前に述べています。

 

見えない心の世界、感情の世界、その意識の世界のほこりをあんまり溜ら

ないうちに掃除しなさいと言っているのです。しかし、貴方のエゴはこの

ように反発するのです。

 

いつまでそんなことを続ければいいのだろうか。いつまで掃除しなければ

ならないのだろうか。

 

このような人は、水でびしょびしょになったふとんに寝ていても、不快感

を感じない哀れな人間なのです。そのような人は真冬に裸で町を歩くよう

な馬鹿なことをしている人間なのです。

 

心の世界というものは、貴方が強く感じようとすれば、感じとれるのです。

 

貴方がこの世に生まれてきた理由は、ほったらかしにしておくと、心の中

の雑草は貴方の背丈よりも髙くなり、前が見えなくなりますよ・・・という

ことを理解することなのです。その理解力に尽きるのです。

 

 

 

だからこそ、1日の終わりには、大いなる存在に対して1日の中で積り積

もった雑草を刈り取って貰えるように祈りましょう。そしてその刈り取る

作業こそ、当たり前の人生であることを・・・そしてその行為は死ぬまで、

死んだ後も永遠に継続する、人の勤めであることを理解できるように祈り

ましう。

 

雑草の無くなった自分を求めるのはやめなさい。

 

雑草の無い自分を求める生き方こそ、納得しないと何も出来ない愚かな、

人生なのです。それが人と人との繫がりを窮屈にしている原因なのです。

人間は汚れてもいいのです。汚れれば洗えばいいのです。そして洗った分

でけ又汚れるのです。当り前のことなのです。そしてそれが無意識に定着

し始めると、貴方は自動的に仏陀となるのです。清まった分だけ汚れるの

だということを忘れないで下さい。そしてそれが変化なのです。

 

汚れることを恐れないで下さい。汚れることを善悪でとらえないでくださ

い。

 

それは人としての当たり前の事なのですから。その状態を中立と言います。

 

全ての覚者も常に汚れていました。そして汚れることを恐れなかったので

す。

 

それは畑のようなものです。耕し、刈り取る・・・この当たり前の真理を

理解していたのです。そしてそのことを大切なこととして、多くの人に伝

えました。

 

しかしその覚者たちは、その大切なことを、大切なことという想いを、た

たき壊した人たちなのです。

 

伝え聞く人間は、大切なこととして受け取ります。伝えた人間はそこに価

値も意味も置いていません。ただ、伝えただけです。

 

釈尊もキりストもいつも汚れていました。そしていつも洗っていました。

その二つの心の姿を、等価としてただ単純に作業をこなしていたのです。

結局覚者とは、その単純作業を骨の髄までしみこませ、その重要性を超越

した人であると言えます。

 

想念とは、結局雑草です。そして刈り取ればいいのです。

 

いつも同じ想いがわき上がって困っている人へーー 刈り取りなさい、刈り

取った後も同じ想いは生涯付きまといます。

 

貴方が理解しなければならないことは、想念の内容を変えることでもなく、

想念を消すことでもなく、ただ、汚れたものは洗えばいいんだという、万

物生成の法則を理解すればいいのです。想念の内容なんかはどうでもいい

ことです。

 

ただ、汚れたものは洗う、耕して刈るーー それをどこまで理解できるかな

のです。想念の内容を変えることを望むことは、小手先のテクニックです。

これでは何にもなりません。もっと根本的解決をすることです。

 

空とは、当たり前のことを、当たり前に認識できる能力を言うのです。そ

してその能力こそ霊性の姿なのです。

 

人、形に惑わされ、形を変えようとする、そして形と形が複雑にからみあ

い、形を際限無く造りつづける。

 

形とは、言葉成り。表現成り。これ刈り取ることの出来ぬ人間は囚われ人

なり。菴の中の鳥なり。

 

形を超えた姿とは、ただ行えばよい。

 

行うことの難しさを信じる人間は、囚われ人成り。

 

さあ、他者から、「汚い」「おまえの考えは狂っている」「おまえとは考

え方が違う」と、どのようなことを言われても、その時こそ、それは貴方

を刈り取る最髙のチャンスであり、それは収穫の日であり、祝祭の日であ

り、神々が祝い集う最髙の時なのである。

 

さあ、勇気をだして畑にでかけなさい。貴方の意識の畑に出かけなさい。

一日目は腰が痛くなるかも知れない。

 

二日目は手足の豆がつぶれるかも知れない。

 

3日目はもう畑に行きたくないと言うかも知れない。

しかし、勇気をふるい立たせて畑にでかけなさい。

 

それが自律するということであり、大人になるということであり、光真人

に成ったということである。

 

この伝達書は、私が貴方に送ったものではない。

 

貴方が学ばなければならない、貴方の今後の企画書なのである。

この伝達書の作成者は、これを読んでいる貴方である。

 

 

 

 

さあ、刈り取れ、心の雑草を刈り取るんだ。

 

貴方が雑草を刈り取るごとに、人類全体の雑草も刈り取られている。そし

て貴方の心の世界に新しい畑を造ろう。そして刈り取った雑草は畑の肥料

になる。

 

そして必ずその畑から生命が育つことだろう。

 

貴方は刈り取ることによって、新しい生命を手に入れることになるだろう。

 

これこそ、創造の喜びである。何と素晴らしいことか!

 

納得を超越した人 光真人より