21世紀人になるために

宇宙の方々の仲間に入るには「想念観察」は必須条件です!!

白己想起は観ていることではない  観ていることは 考えることではない  ラジニーシ

次の文章は想念観察についての疑問点にラジニーシが答えているもので、

和尚タイムズ6 3号• (03-5729-1821*和尚イヤー発行月刊誌)からの

 

抜粋です。参考になると思いますので、掲載させていただきました。

和尚イヤーの月刊誌は、大きな書店では販売されているそうです。

 

白己想起観ていることではない

 

質問

自己想起とは、観ていることではないのですか?

 

答え

大変な違いがある。何故なら自己想起では力点は自己にあるからだ。

内省とまさに同じく、その力点は思考、フィーリング、感情、気分、怒り、

セクシュアリティーといったものにあり、自己は忘れられている。

 

自己想起では自己が想起されており、全エネルギーは自己を中心に置き、

貴方はただ気分を、状況を、フィーリングを観ている。それについては考

えてはいない。と言うのは、思考の中では眼差しが、その眼差しの純粋性

が失われるからだ。観ていることは、それから又一歩先にある。

 

観ている事の中では、自己さえも捨てられる。想起しか残っていない。

 

私が想起するというのではない。私はもはや観ていることの一部ではない。

 

ただ想起しているだけだ。

 

・・・想起とは、自己を想起することだ。

 

 

 

 

自己想起は始まりだ。観ていることは最後だ。

 

自己想起によって人は怒りを見守ることを、自分自身を自己に保つことを、

自己に結晶することを、マインドのなかの自分の周りに起きるさざ波を見

ることを始める。だが、貴方がマインドを見守ると、徐々にマインドは消

えていく。

 

マインドが消えて、そこに真空があると、そこで新しい一歩を踏み出すこ

とが出来る。今度は貴方は自分身を見守る。

 

今や怒り、セックス、嫉妬を見守っていたエネルギーそのものが解放され

る というのも、嫉妬、怒り、セックスが消えてしまったからだ。

 

今やその同じエネルギーが一回転して、自分自身を見守る。

 

その同じエネルギーが自己を見始めると、その自己も又消えていく。その

時そこには想起だけがある。その想起が観ていることだ。

 

観ていることのなかに自己は無い。

 

貴方は怒りを見守るが、自分自身を見守るとき、貴方はもう貴方ではない。

 

ただ広大な、無限の、限り無い観照だ。ただの意識ーー無限で、広大だが、

結晶化していない。これが理解されなければならない。

 

 

 

 

グルジェフが生涯かけて自己想起の手法に働きかけたのは、西洋に観照

紹介することはほとんど不可能と思われたからだ。というのも、西洋は内

省で生きてきたからだ。キリスト教修道院はすべて内省を教えてきた。

グルジェフは内省を超えたあるものを紹介した。彼はそれを自己想起と呼

んだのだ。

 

彼は常に観照を紹介することを考えていたが、彼にそれが出来なかったの

は、観照は自己想起が定着して始めて紹介できるものだからだ。それ以前

にそれを紹介することは出来ない。自己想起が成熟する以前にそれについ

て語っても、どこにも行き着けない。それは無用の業になってしまう。

彼は長いこと待ったが、それを紹介することは出来なかった。

 

東洋で私達はその両方を使ってきた。実際は私達は三つを全部使ってきた。

内省は非常にありふれた宗教的人びと、深く進みたくない人たちのための

ものだった。深く進みたい人たちのためには、自己想起だ。

そして深みの中で消失するほどに深く進みたい人たちのためには、観照だ。観ていることが最後のものだ。それを超えては何一つ存在しない。

 

者の目撃者になることは出来ないーーなぜなら、それも又観ているこ

とだからだ。だから観ていることを超えて進むことは出来ない。究極の終

わりに到達したのだ。世界の最後は観ていることだ。

 

 

内省から自己想起に進みなさい。そして自己想起から、いつか観ているこ

とに移ることを望みなさい。

 

ただ自己想起がゴールではないことを心に止めておくといい。それは単な

としていいものだが、人はそれを渡らなければならない。それを超え

て行かなければならないのだ。

 

 

 

観ていることは 考えることではな

 

質問

和尚貴方は、マインドは二つのことをーー つまり、考えることと観

ていることをーー同時にすることは出来ないとおっしゃいました。とする

と、観ていることは頭脳の能力でマインドの行為とも思われます。そうな

のでしうか?

 

答え

観ていることは頭脳活動ではない。考えることは頭脳活動だ。

むしろ、考えることがマインドだと言ったほうがよい。

 

マインドがなくなって、マインドが不在の時、マインドが消えてしまった

時、その時、初めて人は“観ている”という状態を持つ。

 

それはマインドの背後に在るものだ。だから私が、「人は二つのことは出

来ない』と言った時、私の言う意味は「人は考えることが出来るか、観て

いることが出来るかのいずれかだと言うことだ。

 

考えていたら人は観ていることを失う。その時は、マインドが貴方の意識

にかかる雲になる。観ていたら、同時に考えることは出来ない。その時、

そこにマインドは無い。

 

考えるということは、身に付けたプロセスであり、観ていることは人の本

性だ。だから私は、人は二つのことは出来ないとか、マインドには両方は

出来ないと言っても、マインドが観ているという能力だということを意味

していない。

 

 

 

マインドとは考える能力、マインドは気にする能力だ。

実際、言葉だけの為の多くさんの問題が生まれる。

 

マインドと言うようなものはない。あるのは単なるプロセスで、「もの」

ではない。マインドと呼ぶよりは「マインディング」と呼んだ方がよい。

それは絶えざる思考過程、思考に次ぐ思考だ。その隙間のなかにだけ、二

つの思考の間の隙間でだけ、観ているという本性の何がしかを持てるのだ。

だが、思考はその隙間も感じられないほどに速い。

 

自分の思考を観ることを始めたら、思考過程が遅くなって隙間を感じ始め

る。

 

一つの思考が通り過ぎて、もう一つの思考がまだ来ておらず、そこに幕間

がある。その幕間のなかで、人は観ているという状態を持つ。そして思考

は隙間無しに存在することは出来ない。そうでないと思考は互いに重なり

あい始める。思考は存在出来なくなる。

 

もし思考過程が減速したらーーそして瞑想法とは、思考過程の減速に外な

らないのだがーーもし思考過程が遅くなったら、人はその隙間を感じ始め

る。その隙間を通じて観ていることがある。

 

 

 

思考はマインドだ。無思考の意識が、観ているということだ。

 

思考とは外側から身につけたものだ。観ていることは内側だ。

 

意識は貴方と共に生まれている。思考は身につけたもの、耕されたものだ。

 

だからこうしてみるといい。

 

それについて考えないで、つまり——その自分の思考を観ているのだ。

 

腰を下ろし、寛いで、目を閉じ、自分の居、考を、正にスクリーンに映る絵

のように走らせてみなさい。それを見る。それを見守って、それを自分の

対象にするのだ。一つの思考が起こる。それを深く見守りなさい。そのこ

とを考えない。

 

ひたすらそれを見守る。もしそのことを考え始めたら、貴方は立会い人で

はなくなるーー貴方は罠にかかったのだ。

 

 

 

 

外で笛が鳴る。思考が起こる。ーー車が通り過ぎるか、犬が吠えるか、

何かそんなことが起こる。それについて考えてはいけない。ただその思考

を見守っていなさい。

 

思考が起こって、ある形をとった。今やそれは貴方の前にある。やがてそ

れは通り過ぎるだろう。別の思考がそれにとって替わる。

 

その思考過程を見守りつづけなさい。とえ一瞬でも、それについて考え

ること無く、この思考過程を見守ることが出来たら、貴方は観ているとい

うことの何かを手に入れる。観ているということの何かを知ることになる。

 

これはある味わい、考えることとは違う味わいだ ーーー全く別のものだ。

 

ただ、人はそれを実験しなければならないのだ。