(水瓶座讃歌NO.32より)
古神道を散歩する
編集部では“神界” “仏界”について、宇宙の人々に何の質問もしたこと
が有りませんでしたが、最近、編集部に仏教関係や神道関係者の訪問が多
くなり、その中で、古神道関係の本に書かれている《アメノミナカヌシノ
大神》について質問を受け、応えてくれましたので掲載してみます。
アメノミナカヌシノ大神
由来の地=九州女性因。柔の方の神。
天と地の力、雨を降らせる力を与えられている。地の方から噴水のように
雨を降らせる。
【創造】を会長としたなら、仏教では如来、キリスト教では天使と表現さ
れる立場の存在で、部長級の役割を受け持っている。
祀られている存在は全て、会社に例えれば支店であり、本店である【創造】
は見ることは出来ない。この数は49の7乗、位の数の存在があると考えてよい。
天照大神の本名
天照無行心身大光創造=アマテラス厶ギョウシンシンダイコウソウゾウ
(別名•天照国人大光創造=アマテラスクニヒトダイコウソウゾウ)
天照大神は地球の守り神で、アメノミナカヌシノ大神は上司に当る関
係だそうです。
[古神道]と言う呼び方は観る立場からの呼び名で、行う立場からの呼び
名は[道神行(入)]と言うのだそうです。
以上は“光真人”が答えてくれました。
その時のついでに出た話
苦悩という闇は仮の夢であるから創造できる。真実の光というものは創造
出来ない。それは本来、溢れいずるものであるからである。
創造は仮の夢を創造しながら人間に創造(想いを削る)させ、光は創造し
得るものではないことを認識させるであろう。つまり、光というものは、
求めて得られるものではなく、苦悩に対する理解に精通するならば、なる
ようになるものである。祭日としなさいは、創造し得たものだから。現実
はどこを探しても見当らない。
霊障なるものは、つまり迷える意識というものは弱いから迷うのであり、
生命力がか弱いと言うことは、死の淵に瀕しているということである。
それを浄化するということ自身が、理に合わないことを行っているのであ
る。死者は死者として葬るのが親切というものであろう。よって憑依は絶
対存在しない。それは苦悩即喜びととることの出来ない、人の頭の偏狭の
狭さであり、幻影の世界にしか過ぎない。
よって苦悩は何のために与えられたのか・・・幸福にするためである。
幸福にならない理由は、苦悩の前後が想いとして湧きあがってくるからで
ある。過去に想いを向け、未来に想いを馳せ、今終わったこと、未来にま
だ始まっていないこと・・・1粒の苦悩は際限無く広がり続ける。
だからこそ、あるがままが判らない。
前後の縁を断ち切り、今の苦悩を受け入れたならば、それは祝祭となるで
あろう。
闇は光である。想念の監視人とは、正に霊のことを言っているのであるが、
それは過去と未来の想念を、幻想として理解することなのである。
光真人