21世紀人になるために

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《神》についての認識瞑想

《神》についての認識瞑想  水瓶座讃歌33号より

 

三重県 U正時

 

平成7 1 17 日の大震災を数字に並べると71 17 となります。そし

てどちらからでも同じ配列となります。1は最初の数で、7は完成の数で

す。つまり、地球の大周期一循環一人類の胎児期の終わり一新たな次元へ

の始まり(誕生)と言うように解ける気がします。

 

その意味するところは、神道的に言えば、建て替えと言うことで、つまり、

新生のための破壊ということであるようです。

 

この地により、多くの日本人が忘れていた何かを思いださせてくれたの

も事実で、その中にボランティアがあります。この語源はラテン語で、

「自発的な意志の立上りのことです。誰に言われずとも救援の手を差し

 

伸べたくなる・・・意志の立上りです。心の眠りから醒めたのではないか

と思います。

 

建て替えの本意とは、このように何か(物質)を失ってはじめて本来的

(霊的髙次元)なものがよみがえることだと解釈出来ます。

 

さまざまな形で起るであろう建て替えの嵐・・・逃げず、恐れず、正面から

受け止めていきたいと思います。

 

をテーマにした認識瞑想で得られたものを記します。

(私の神に対して持っている概念は、“調和エネルギー意志

全部で一つ一つで全部独裁者エゴイスト”でしたので、

それを常に頭に起きながら認識瞑想してみました。)

 

 

 

こんな小さい人間がどうしてこんなに大きい宇宙に想いを馳せる?

 

{創造の神}を創造するものは?

 

言葉の限界、蛇の知恵、説明したら説明でなくなる。

定義したら、定義でなくなる。

 

神が何の意味も無く、こんな人間界、地球の惨状を許したと思うか。

 

全てのものがここに帰ってくる。人智では計り知れない。

たった一人の人物にしか降りないと思うのか?

 

そなたらに神を疑う事さえ、否定する事さえ許しているのが神であるぞ。

 

 

 

完全な神が進化するのか?

 

神は何故人間を不完全なものに造ったのか?

 

自分と同じように完全なものに造れなかったのか?

 

全て知識は虚しい。最後の一厘が無いぞ。神は響きの中にしかおらん

ぞよ。この大宇宙のあちこちで、そなたと同じように我()を呼ぶ声が

あると、思うか。

 

今そなたは、自分一人で神と対しておろうがな。この大宇宙の中で、たっ

た一人でだ。それでも神はそなたに語りかけるぞ。判るか?

 

神が別にあって語りかけているのではない。そなたの中にいる神の分霊

(分霊も神じゃよ)が語りかけているのじゃ。じゃから、分霊の個性は必

ず出てくるのじゃ。一人一人への語りかけが、全て同じではないのはこの

故じゃ。

 

そなたは今、「神、神仏、大宇宙大神霊と三つの言葉を書いた。何故か?

より実体に近い言葉を探しておるのじゃ。過去よりこれまで、あちこちで

神という存在は様々な表現、言葉で呼ばれてきた。そなたが今使った三つ

の言葉もそうじゃ。ゴットもゼウスも仏もジュピターも主神も創造主も宇

宙意識も宇宙エネルギーも・・・実に様々な呼び方をされている。それは

言葉じゃよ。言葉ももともとは蛇の知恵じゃよ。じゃからどのように神を

表現しようとも、神を説明しようとも、最後には虚しくなるだけじゃ。

 

そなたがこれまで言葉による文章を探して書きつづってきたのも、今一つ

本心を表現しきらんかったであろう。最後の一厘がないからじゃ。

 

 

 

よいか、最後の一厘は言葉の中にはない。饗きの中で感じることじゃ。

念のため言っておく。言葉が不要と言うことではないぞ。切ってくれるな

よ。判っておるな。神は何事も切ることはせんのぞ。蛇の知恵も又必要な

お役御用であるよ。

 

認識瞑想は客観的事実を知ることではない。そなたの心の傾向を教えてお

るのじゃ。成長の記と同じじゃ。尤も成長の記よりは単純な方法ではある

が、しかし、なかなか良い方法であるぞよ。

 

神に関する客観的事実が出るものと思ったら、全然別の想いも出てきたで

あろう。驚いたか? それでよいのだぞ。

 

そなたの宇宙神霊仏」という字を見よ。そなた以外には書けぬ字ぞ。

 

しかしそこにも神はいるのぞ。神は無数無限ぞ。無数無限とは、一つのこ

とぞ。難しいか? しかし何んとなく響いておるじろう。

 

全ての矛盾も対立も、一切合財神そのものであるぞ。そなたが神を独裁者

エゴイストと呼ぼうとも、それはそうであるし、調和、統一、秩序と呼ぼ

うが、それはそれで正しいのじ。しかし忘れてくれるな。ぜんぶ一面的

見方ぞ。一面を見て神と想ってはならぬ・・・かと言って、一面の集合体が

神というものでもないのだ。

 

神を否定する人間がいても、それも神なのじ。どうじ、矛盾だらけで

あろうが。

 

 

 

矛盾だらけが神であるぞ。それで何の対立も不調和も神においてはないの

であるぞ。このこと何んとなく判っておるであろうが・・・

 

と申して、これらを理屈で説明できるか? 出来まい?

 

出来ないのに言葉を無理使いして、神学とか哲学へと突っ込んでいったの

はそなた逹じ。今になって神学や哲学では何にも判らない袋小路だと知

りおるじろう。

 

わかりたか? 神を言葉にて知ろうと思ってはならぬ。響きで知りなされ。

神はどこにでもおるぞ。分けては何も判らんぞ。それは蛇の知恵じ

 

これからは分けてはならんぞ。「神と書いたら、それはもう自分と神を

分けておるのじ。宇宙と神を分けておるのじ。分けるから神は宇宙を

削ったとか、人間を削ったとか思って、どうにもならない迷路へ踏み込む

のじ。そなたが言う「神を削ったのは別の神か、だとしたらその神を創

 

った更に別の神はいるのか・・・ 神の神の神の・・・」と無限連鎖する

理屈は、まさに「分かつ知」ゆえじよ。

 

 

 

どうじ、何となく判りおるか?この何となくが大切なのだ。

 

何となくが響き。響きを言葉にすると死ぬぞ。何んとなくでよいのじ

。理屈は無用じ。直観にも理屈が無いのと同じことじよ。

 

今日はこの位でよいぞ。