21世紀人になるために

宇宙の方々の仲間に入るには「想念観察」は必須条件です!!

紫日記 その6

紫日記 その6

 

神奈川県S田むらさき

 

65何度かお手紙を書いたにも拘らずすぐにど一でもいいような

気がして、いつのにか厶ダに使った便箋が1になりました。

私は何で真理を求めているのかなあ〜〜とボンヤリ考えたりします。

 

別に理由がなくったっていいじないとも思うけど、でも何かやっぱり

「判らないということに対して不安があるみたいです。

この間、考えたというより、想像してみたことがあります。

 

自分がまっ白な、何もない空間に浮かんでいるところを思い浮かべました。

足場もなく、右も左も、上も下も、自分が上に昇っているのか、それとも

落ちているのか、浮かんだまま止しているのか判らず、何も聞こえず、

何も見えず、何も感じず、時間が流れているのか止まっているのかも判ら

ない・・・そんな状態に自分がいたとしたら・・・ハッキリ云って数分の

内に恐怖で気が狂うだろうと思いました。

 

 

 

それで判ったことは、私は本当は“無”なんか求めていないってこと・・・

ただイメージで求めているつもりをしているってこと・・・・だって

よく考えてみたら、自我は常に何かを感じ、思い、考えることで自分を確

認すると同時に、存在させていると思うのです。

 

左右を確認し、上下を確認し、自分の位置を確かめて何かを見ては判断し、

何かを聞いては判断することで、自分』はどういう考えの、どういう感

じ方をする存在かを決定し、存在しようとしている訳です。

 

何故常に瞬間瞬間休むこと無くそうしているかというと、もしも一瞬でも

確認作業をやめたら、自分が消えちゃうからだと思います。本当は存在し

ないことを自分でも判っているんだと思います。だからいつもいつも自分

を確認していないと不安なんだと思います。

 

「判らないのは嫌なのです。

納得しないと不安なんです。

未来が判らないのは恐いです。

 

 

 

 

一瞬後に何が起るのか、どうすればよいのか・・・自分でコントロール

来ないものに対して、自分で確認出来ない状態に対して、不安を覚えます。

 

分を確認するものを全て手放すことは自我にとっては自殺することと

同じになるのでしよう・・・ここに創造を求めるという意志との矛盾した

関係が生れます。

 

創造を求め、無限を求める・・・この「私」は「自我です。

 

いや求めるのは自分の本質の声だと云えるかも知れませんが、創造と一体

になりたい、中立になりたい、という願望を持っている「自分は「自我」

だと思います・・・でも本当に創造と一体になれば、その時、その「自分」

は消えます・・・「自我は私自身ではないとして。

 

よく私は私の自我は・・・とか云う表現をしていたけれど、とりあえ

ずそれを言っている私自身も「自我だと思うのです、今は・・・

 

そして、その私は、「自我」としての自分のまま創造を求め、体になろ

うとしています。

 

自分(自我)が消えるなんてことは考えていないのです。

 

本当は恐いんです

 

自分が消えるのは恐いんです。

 

死ぬのは嫌なんです。

 

でも死ななきゃ創造は生れてこないと思う・・・

 

目覚める事は、眠ること。

 

生れることは、死ぬこと・・・逆も言えるけど・・・。

 

 

 

こんな私が「意味無き、理解無き、論理無き、感性無き、存在の存在」に

なんてなれるわけないじゃあないか・・・それがどんなものか考えた時

点で、もう失格だ。

 

感じよう、理解しよう、想像しようとした時点で、失格だ。ハナシにもな

らない。

 

私は無限を理解しようとして、有限のものをフル回転させる。創造に近づ

くために自我を使う。それはもしかしたら必要なプロセスかもしれない。

けど、いいかげん「それではダメだと感じ始めています。

 

ではどうすればいいのか?・・・というところで止まっているのです。

 

とりあえずは、後から後から込み上げてくるこの「不安」を、ジッと見詰

めるしかないのかしら?

 

恐いのです。創造に任せるなんて、まだ出来ない。

 

自分で確認していないと恐い・・・納得していないと不安・・・何も無い、

判らない世界なんてまっぴら・・・この「自我」の声をただジッと見てい

ればいいのかな・・・非常に気分が落ちこんでいます・・・まあ、いっか。

 

 

 

PS 昨夜「ずっと気力が無いとと主人に言ったら、「それならFU J

I日本に行ってこい!ですって。

 

62 6先日は想念観察の会に参加させていただき、初めてだったの

でドキドキしていましたが、皆様とお話していたらわりとリラックス出来

ました。とても楽しかったです。当日言葉を交わした数名の方は、面白い

ことに皆様覚えのある気がする人ばかりで、「どこで会ったっけ?」と

考えてみましたが判らず・・・でも確かに、前から知っている気がしまし

た。

 

当日の主なテーマ「自分の解放」は、ちょうどこの数日、私はそれを考え

ていたところでしたので、正にタイ厶リーでした。

 

内容は大体判っていることばかりでしたが、逆にそのおかげでためになり

ました。同じ話を何回も何回も聞いたり読んだり考えたりして、同じとこ

ろをず一っといる自分が見えて、おかしくなって笑ってしまいました。と

云うことは、要するにまだ頭から腹にエネルギーを納めるテクニックが

手だということです。

 

他にも当日の話の内容はいろんな風に解釈できるし、どのように観るかで

いろんなことが判るので面白いです。

 

 

 

当日の話も、他の方たちの質問も、動きも・・・要するに全体の構成に

は厶ダが何一つ無くて完璧だった・・・そういう印象が残りました。

 

本当は、いつでも、どの一瞬も完璧なんでしょうけど、何故あの集会日に

限ってそう感じられたのか・・・恐らく “集中度”の違いであろうと思わ

れます。

 

普段はただ何んとなく過ごしているだけで、注意力が無い、ボヤーッとし

た状態なんだろうと思います。これは私にとっていい気付きになりました。

もう一つ肝心なことはリラックスしていたということです。

 

その日は、適度にリラックスして、適度に意識を向けて、適度?にボヤー

ッとしていました。

 

 

 

ハテナちゃんに対面して、正直な感想は子供のオモチみたいでした。

でも不安恐怖の無いエネルギーにあって変色してしまったサクラハテナち

ゃんは不思議でしたね。

 

私はピンクハテナちゃんにしようと思っています。夏のボーナスか、又は

冬のボーナスで・・・

 

73日・・・家族全員風邪をひいてしまいました。父が昨釣に行ったら、

水温が下がっていたし、魚の取れ方が例年と違っていたそうで、「異常気

象だなと云っていました.

 

4日前に実家に行き、ファミコンをやったのですが、“予想”・・・つまり

を考えると、かえって失敗するということが判りました。

 

その予想に縛られて、動きが限られてしまって、予想が外れたとき、とっ

さの行動に出れなくなるのです。その場その場の対応は、その時にならな

いと判らないですね。このことに気付いたので、今迄コンピューターに連

敗だったのが、連勝しました。

 

 

 

この数日、ずっと具合が悪かったので、昨日は実家でグッスリ寝て回復す

ることが出来たのですが、その時、思ったことがあります。

 

当たり前のことですが、私が休めたのは、母がいて、子供の面倒を見てく

れたからで、私の行動の一つも、それは「させていただいていると云う

ことでした。

 

私の主人は、例えば私が不機嫌でも、ったり気分を損ねたりしませんが、

私は主人の機嫌が悪いと、何だか不愉快な気持ちになります。こっちにま

でイライラが伝わってきて、私もイライラするのです。

 

でもそれは主人も同じはずなのに、なんで主人は私が不機嫌でも平気なん

だろう・・・と思って不思議に思うのですが、そのお陰で、遠慮無く ?

不機嫌でいられることに気付いた時、「ああ私は不機嫌でいさせてもら

っているんだと思って有り難く感じました。

 

 

 

 

不機嫌で居るのはそれなりの原因があります。

 

それを表現することで発散(エゴの発散活性化はどこかで摩擦作用にも

役立つのでしょう)出来ているんだと思うのですが、それを許されなかっ

たら、いつまでも自分の中でストレスとなっていたでしょう。

 

他にも私がひどく疲れている日に、主人が先に疲れた!』と云って、そ

の日の出来事を話されると、私は「自分も疲れている」と云えなくなって、

聞き役に廻らざるを得なくなって、肩を揉んであげたり、「寝ていいよ

と休ませたりしますが、心の中では「私も肩凝っているし、休みたいよ

〜〜〜と思っています。

 

でも面白いことに、何かの動きをする為には、それを行う側と受ける側と

二つ揃って可能になるのですね。

 

行う側ばかりでも受ける側ばかリでも、対立を産みます。

 

私の何気無い行動の一つ一つが、一体どれだけの対極を造っていき、対立

を造ったり、収まったりしているのだろう。そう思ったら、なんだか身動

き出来ないような気持ちになりましたが、先日主人と「鯨の捕鯨」につい

て話をしました。私と主人は視点や考え方がかなり正反対です。

 

主人は鯨を食うのは日本の食文化なんだ。それをダメと一方的に云う保

護団体(グリンピース)は嫌いだ言います。

 

 

 

私はでも捕りすぎると困るんでしょ。絶滅しちゃったらどうするの?

と言いました。疲れていたので意識はもうろうとしていたのですが、頭の

中で、「鯨を捕りたい人たちと、禁止しようとする人達と両方いるから、

お互いに引っ張りあって、バランスがとれるんだという考えが浮かんで

きました・・・どっちが正しいとか、そんなことはどうでもいいし、どち

らの主張も、唯バランスをとるための架空の、仮の内容に思えてきました・・・まだここまで書いても自分でちゃんと考えがまとめられないのですが、つまり偏りと云うのは、別に悪いことではなくて、働きの一つである。

 

 

その偏りは、もう一つ反対の偏りを産むけれど、その二つで一つのものを

産みだすのであり、偏りはそれを産みだすための、仮の働き、現れに過ぎ

ず、幻である・・・と云うことです・・・云うことで、偏り

必然的に現れるもので、失くすことは出来ないし、失くそうとすれば、そ

こに何も産まれないでしょう。

 

失くそうとするのではなく、その偏りが何を産み出すかというところに意

識を向けるのが重要だと思います。

 

・・・私は個』であり、「偏るのです。でもそれは「働きです。

 

何かをすれはそれは偏るのです。でもそれは一人で行うのではなく、

周りのものと調和の中で行えるのです。

 

偏りは対となる偏りを産みだしますが、その二つで一つです。それは中和

です。

 

一は二を産みだし、二は一を産み出す・・・・『中和』への考え方が変わ

りました。

 

 

 

ここまで書いて、後一歩のところで考えが煮詰まっていない気がします。

最終的に理解しなければならないことが、もう一歩奥にある感じで、まだ

スッキりしませんが、その内判るときもくるでしょうね。

 

7 17 なんとなく、ちょっと暗くなっています。・・・結局わたし

はわたしの域を越えられないのでしょうか。・・・わたしが想念観察の会

の参加やハテナを買う気になったりしたのは、自分の決まりきった思考パ

ターン、世界を破りたいと思ったからです。

 

正直、限界を感じたというか、飽きてきたのです。

 

わたしは、わたしの目からみた世界しか知らない。そんなのつまらない・・・そう思ったんです。

 

でも、考えてみたら、どんなに新しいと思える物の見方をしたとしても、

やはりそれは、わたしという一つの窓から見た風景しか見られないです。

違う自分が増えるというより、同じ自分の世界をただ広げていくだけのよ

うに思えます。・・・感じ方がヘンなのでしょうか?

 

 

 

昨日、実家に帰って母に貸していたバシャールの本を読んでいたら、死後

は時間というものがなくなって、思ったことや考えたことが、すぐに現れ

る、というようなことが書いてありました。

 

自分の考えが変われば見える現実も変わると・・・以前は、すばらしい

な一なんて思ったんですけど、昨日は逆の感情がでてきました・・・結局、

自分の世界しか見えないってことですよね?

 

別に死ななくたって、今でさえそうです。

 

結局、自分の感じたことを感じ、思ったことを思い、考えたことを考える。

常に今の自分を打ち破り、その度にまた違う物の見方、考え方を見つけて

も、やはりそれも「自分という窓からみる風景にすぎず・・・そうや

って、いくら自分を打破しようとしても、結局「自分」から外には出

られないのではないか? という気がします・・・悲観的すぎるのかな・・・間違った考え方なのでしようか?・・・なんか、自分の思った通りの現

実があらわれるって、ちっとも喜ぶ気になれない・・・

 

 

 

 

でも、これは思考の世界ですね。これこそ狹いで出した結論にすぎ

ないのかも知れない。

 

自分の知らない世界のことを、自分の知っている(考えられる)範囲で知

ろうたって無理に決まっているのに・・・『知る』とか「知らないとか

って何だろう?って思います。・・・相対的な言葉である以上、それにこ

だわるとか、確信するのはやめた方がいいのだろうと思います。

 

知る』があるから知らないということを思いつく訳で(逆も言える

かも)そこに知りたいという欲求が生れるのかも知れない。

 

でも、なんかすごく巧妙なトリックにひっかかっている気がする。

 

「知らない、知らないことがあると思うから「知りたい」と思う訳で、

それなら「知らない」と思うところに問題があるのかも知れないけれど、

それならば同様に「知っているという認識自体を見渡す必要があるのか

・・・。

 

 

 

それに知ることが善である、という善悪観念もからんでいる気がする。

 

・・・全部錯覚? なんだか最近よくわかんないです。

 

理解なき存在となるために、理解していくというパラドックス

 

無知なる自分を知るために学んでいる自分。(無知であると知った自分は

無知なんだろうか?)・・・でも、自説に基づいて解釈するなら、一は二

と現れる・・・『怒る』のは、怒る人間と、怒られる対象がなければ不可

能ということ。

 

じゃ「理解なき存在」は無理解』と「理解」が揃わなきゃダメッてこと

かな。でも、このことを「理解するのがむずかしい・・・訳わかんない

デス、ハイ。

 

 

 

こんな自分を笑ってみている宇宙の人の姿が見える気がする・・・ウー。

なんかちょっぴりくやしい・・・温かい笑いであるとわかっているけど。

 

・・・なんか、ここまで書いておきながら読み返してみると、全部理屈で

しかないなと思えてガックリしちう。一体、何やってるんでしょうね一、

わたしは。(でも、ほんと言うと、この状態を楽しんでるんですけど)

 

たわを書きたいだけ書いて、全部理屈だとわかって、勝手にスッキリし

て、楽しんで・・・こんなわたしの遊びに付き合って下さってありがとう

ございます。すみませんね、ほんとうに・・・

 

 

 

721この間、自分の書いた手紙の内容(結局、自分の枠を越えら

れないのかという)についてまた考えて(というか、新しい考えが入って

きたというか)思ったことは・・・「自分を越えようとする前に結局、

自分は、自分という世界にしかいないということを素直に認め、その自覚

をひたすら持ち続けることが大切だということです。

 

何を考え、何を思い、どんな真理を認識しようとも、それは結局自分』

という枠の中でのことでしかない。その自覚を忘れないということです。

それは事実だから・・・

 

それをどうにかしたい、というのは、その事実を認めたくない心理のあら

われです。多分「私の本質は違う、私は創造なんだからという思いが

その根底にあるのでしょう。でも、これは一種のワナですね。

 

私は、私の知り得る範囲でしか、考えられる範囲でしか、見える範囲でし

か認識できず、判断できず、感じることもできません。それは別に悪いこ

とではなく、恥ずかしいことでもなく、ただの事実に過ぎないのです。

だから、ただひたすら、それを認識し続けることしかできないのです・・・

 

 

 

 

深く、広く ・・・・徹底的に・・・

 

それをどうにかしうとか、そんなことは考えなくていい。ただ事実を受

け入れるだけなんです。気が楽になります。

 

創造を求めるということ、真理を学ぶということ、それはあくまで「自分」

という限られた範囲の中でしかできないことなのですね。

 

何を知ろうと、何を理解しようと、何をつかもうと・・・所詮は「自分

という限られた枠の中でのこと。・・・それは別に悪いことでもなく、恥

ずかしいことでもなく、レベルの低いとかいうことでもなく、それが今の

私の事実・・・そこに意味づけは必要ありません。

 

以前から宇宙の人がをすっぱくして言っていたことなのに、ずっとわかっていませんでした。頭の中では本当にその通りだ、と恥ずかしくなったり、それなら限られた狭い視野ではなく、広い視野で物事を見ようなんて思ったり・・・そう思うこと自体わかっていない証拠だとも知らずに・・・

 

まあ過去をあれこれ思っても仕方ないので、もうやめますが。

 

・・・創造を求めるということをもう一度見つめします。

 

 

 

 

何を得ても、それは「自分の中とわかったので、もう今までのように創

造を求める訳にはいかなくなりました。

 

求める』・・・これも巧妙なトリックですね。不思議なパラドックス

楽しい謎解きですね(面白すぎてやめられない!)

 

・・・クリエさんの人間は意味なき、理解なき、論理なき、

感性なき存在の存在に帰るという言葉・・・つまり無限ということ、創

造、原点ということでしょうが・・・・まあ意味も理解も論理も感性も全部

創造されたものですものね。あとからくっつくもので・・・それは「すで

に存在しているものに対して起きてくる(生れる)ことができるもので

あるので、これも全く変ですよね一・・・創造は創造するものなんだから。

 

創造が創造である限り、「創造されたものはどうしたってでてくる訳で、

そしてその創造されたものはまた、子供がやがて親になるように創造する

ものになっていくんでしょう? ・・・だったら・・・まあ、いいや。

 

・・・ただなんとなく自分が思っていた創造が、また崩れてきたような気

がするので・・・もしかして、まだ勘違いしていたかも・・・と、そんな

気がしてきました。・・・これだからこの道を進むのはやめられませんね。

この旅は最髙!面白い!

 

 

 

それから話は変わりますが、ハテナちゃんが来てから、ストーリーのちゃ

んとした夢を毎日見るようになりました。外国に留学していたり、戦争が

起きて逃げていたり・・・昨夜は小桜さんがでてきて写真を一緒に撮りま

した。あと、何かいろいろ会話もしました。

 

現実にはほとんど話したことないのに夢ではちゃんと会話してるんだから、

なんか面白い。

 

72 5梅雨があけて夏本番ですね。

 

ハテナちゃんは今日も元気です。・・・一番効果があらわれているのは主

人のようです。なんと自分から瞑想するようにまでなったんですから・・・

 

 

 

 

私はというと、二か月程前にある本を読んだのがきっかけで、人間不信、

愛不信の最後の壁をのりこえ(しばらくは愛が最髙で一番大切よ!と酔っ

て?いました)性格も変わりました。他人に対して、ごく普通に愛情を

持てるようになったので心を開いて接せられるようになったのです。

 

近ごろは、特定の人間だけへの愛情から行動するのは愛じゃないとも思う

ようになっています。・・・・でも、ハテナちゃんにはあまりまだを開け

ていないような感じ・・・ハテナちゃんの方は私よりも、私のこと知って

るのに。

 

でも、この間ちょっとイヤなことを思い出していたら、頭の中に

悩みごとを隠すの案外へ夕だね一”と田原俊彦の“抱きしめてTon i

gn t ”が流れてきて「ン!?なんだ?と思ったら、そのうち続きの歌

詞“君ばかりをみてきたからわかるつもりさ一”で、もしかしてハテナち

ゃんかも、と思って笑ってしまいました。もっと甘えていいんだろうけど、

そういうのあんまり上手じゃないので、もう少し気長につき合っていただ

こうと思います。それと・・・なんだか考えたりするのが疲れてきちゃい

ました。

 

私にとって真理を求めるというのは、いろんな物事の意味を考えることだ

ったようです。これはどういうことか、なにをあらわしているかと。

 

 

 

例えば、朝太陽が昇って、夜は月が昇るということに意味を見つけようと

・・・でも、意味を探す前に朝は太陽が昇り、夜は月、ということを

まず意識的に確認するということが抜けていたなあ・・・と思ったりして・・・でも、それに気付いてみたら、今度はそれは一つの見方に過ぎないんだな、と思いました。そうしたらまず、自分はどういう風に物事をみてい

るかを確認せずに、先に意味を考えることは、自分の判断をそのまま受け

入れて疑っていなかったことになるなと思ったりして。

 

子供に言わせたらきっと、いろんな解釈がでてくるでしょうね。

 

太陽と月が追いかけっこしてるとか、ケンカしてるんだとか、いろいろ。

それでもし“太陽と月が追いかけっこをするのはなぜか”なんて考えて意

味を見つけだして、それが真理だと思ったとしても、私がやっていること

もそれと同じだと思うので笑えないです。

 

もちろん、いわゆる科学的根拠に基づいた判断をすることはできるし、実際に太陽と月は交互に昇ってるんだから、正しいじゃない? なんて思うけど、でも宇宙からみれば地球の方がまわってるんだし、一つの地点を基準にできなくなるので、昇ってるとか沈んでるとかいう見方はできない。

 

さらに違う次元からみたらどう見えるんだろうか?・・・こんなこと考えていくと意味を探すのは単なる遊びとして楽しむ分にはいいけど、あんまり考えなくていいかも、と思います。

 

 

 

でも、どんな世界(見方)においても創造の法則は働いてるワケだ

から、どんな意味を考えてもいいんでしょうけどね。

 

でも今は疲れてきたので今、自分はどういう風に見てるか(判断してるか)

だけ確認して、いろんな見方を考える・・・想像することをしていたい気

がします。

 

どんな見方をしても、見ている対象が創造であるかぎり、そこ

から引きだせる意味』は創造なんでしょうけど・・・

 

純粋に物事をみるとはどういうことかと思います・・・自分の見ている

世界をそのまま素直に認めること・・・カナ?

 

私はこのように見て、このような世界に住んでいて、でもそれはあくまで

自分という限られた範囲であること・・・『無限』という言葉を常に念頭

におくと尚更そう思います。逆に自分は限られた世界にいるな、と思う

ど無限を思い起こすし・・・でも、私が今有限であるということに関して

 

特に何も思いません。

 

 

 

本来は無限である存在なのかも知れないけれど、私が実際に認識できるの

はごく限られたもので、それは事実だから、今の私にできることはその事

実を見つめることぐらいなのです。でも、どんな世界にいても創造でない

ものはないのだから、どんなことを得てもそれは創造の一部であることに

違いはないのだから、限られた世界において、その限られた範囲内で私は

創造をみることはできるのですよね。

 

でも、それが全てではない。といって数え切れないくらいの物の見方を合体させたとしても、いわゆる無限の見方を得たとしても、全てがわかるというものでもないでしょう・・・

 

多分「無限の見方というのは数の問題じゃないと思うから。「限りの無

い見方」・・・その時、「見方」というものは消えているはずですね?

 

・・・な一んかすご一くゆっくりトロトロと創造への道を進んでる気がす

 

るなあ・・・こんなにゆっくりでいいんだろうか? という気もしますが、

まあ仕方ないかしらね・・・。

 

手紙を何度もだす割りには大して進歩がなくて・・・まあ、すみませんけ

どこの先も私の歩みにつき合って下さいね。では又