21世紀人になるために

宇宙の方々の仲間に入るには「想念観察」は必須条件です!!

紫日記 その7

日記 その7                神奈川県S田むらさ

 

721自分の枠を超えられないのか・・・について思ったことは

自分を超えようとする前に、結局自分は、自分という世界にしか居な

いということを素直に認め、その自党をひたすら持ちつづけることが大切

であると気付きました。

 

どんな真理を認しようとも、それは結局『自分』という枠の中でのこと

でしかない。その自覚を忘れないということです。それは事実だから。そ

れをどうにかしたいというのは、その事実をめたくない真理のあらわれ

です。多分私の本質は違う。私は創造なんだからという想いがその根

底にあるのでしう。でもこれは一種のワナですネ。

 

私は、私の知りえる範囲でしか、考えられる範囲でしか認識出来ず、判断

出来ず、感じることも出来ません。それは別に悪いことではなく、恥ずか

しいことでもなく、ただの事実に過ぎないのです。だから、ただひたすら

それを認識し続けることしか出来ないのが判りました。それをどうにかし

ようなどと考えなくても良いただ事実を受け入れるだけ・・・気が楽に

なります。

 

 

 

創造を求めるということ、心理を学ぶということ、それはあくまで自分

という限られた範囲の中でしか出来ないことを、真に理解することですね。

レベルが低いとかいうことでもなく、それが今の私の事実。そこに何の意

味も必要ないでしう。

 

以前から宇宙の人がを酸っぱくして言っていたことなのに、ず一っと判

っていませんでした。頭の中では本当にその通リだ。と恥ずかしくな

ったり、それなら限られた視野ではなく、広い視野で物事を見ようなんて

思ったり・・・そう思うこと自体、判っていない証拠だとも知らずに。

 

創造を求めることをもう一度見結めなおします。何を得ても、それは

分の枠の中と判ったので、もう今迄のように創造を求める訳にはいかな

くなりました。 求める》・・・これも巧妙なトリックですね?

 

不思議なパラドックス楽しい難解きですね!

 

 

 

 

クリエさんの人間は、意無き、理解無き、論理無き感性無き、存在

の存在に帰るは、意味も理解も論理も感性も、全部創造されたものです

から、それ以前のもの?に帰るということなのでしうね・・・ただ何とな

く、自分が思っていた創造が又崩れてきたような気がします

 

728今とっても楽しい気分なんです。“自分が見ている世界は、

自分という限られた世界に過ぎない”って自覚するたびに、すっごく楽し

いような嬉しいような、自由で伸び伸びした気持ちが湧いてきて、もう心

の中でクスクス、ゲラゲラ大笑いです。もうとにかくウキウキ笑わずには

いられないのです。この軽い楽しい気分は、一体どうしたんでしう。

 

それに楽しさ嬉しさに限りが無いってことが判ります。の中に巨大な空

間が広がっていて、これが気持ちいいくらいにどこまで広がっているのか

見当がつかなくて、その中を進むほど嬉しさと楽しさが込み上げてくるの

で、多分それは楽しさや嬉しさというエネルギーの空間みたいなものなの

かと思います。

 

自分の限界を意することがこんなに楽しく解放された気持ちを湧かせるものだとは全く知りませんでした。もう今なんか、半分宙に浮いている感じです。

 

 

 

2 日後・・・私の感じた喜びや嬉しさは・・・ 湧いてくるという

より、流れ込んでくると言った方が正しいようです。やっぱり全

ては与えられたものってことですね。

 

この頃思うのは,1 2 を生み、2 1 を生むということについて結局

1=2と言うことですけれどそのことから一つ感じるようになったこと

があリます。私はずっ一と一体の中に居たことです。私は何からも切り離

されていませんでした。今も、そしてこれからも。

 

私の身の周りに起った現実は、私が強く願い求めたその結果の現れ”。

 

これはハテナちゃんのポイント音ですけど、願いが現実として現れるため

全てのものが協力してくれているのです。私が孤独で居た時、全ての

ものは私が孤独で居られるようにしてくれたから、私は孤独だったんです。

 

あらゆる現実は周りのものとのつながり無くして実現し得ない。私が今手

紙をかけるのは、書けるように周りの全てのものが、その状況を造りだす

ために協力してくれていること。辛いときも悲しいときも、嬉しいときも、

それは私が強く願い求めたものであり、それを叶えるために全てのものが

動いてくれていた・・・今も。これ以上の一体感が他にあるのかと思います。

 

 

 

それは私が全てと共に在り、全てとつながっている証拠であると思う。

 

寂しさを感じることがあっても、それすらも一体であるという証拠。

それを思う時、私は安心感を覚えリラックスします・・・このことを感じ

てから、創造とは、正に“あるがまま”なのだと・・・すぐそこに創造があ

ったのだと・・・目の前の厚い壁が取り外されていくように感じます。

 

でも、未知なものへの恐怖もあるようです。

 

817以前から時々手紙を書いている時に感じる空虚感について、

考えてみました。何かを理解し時、とても嬉しいのですが、それを改め

て言葉に整理していくうちに、どうでもよくなって出さなかった手紙も沢

山あります。どうでもいいことを書いている気がするので、自分は全然成

長していないと感じてきます。

 

「理解」と云うのが、ただ現れて消えていくだけのもので、目の前を通り

過ぎていくだけで、自分自身は何も変わらないという気がしていました。

では何故考えるのか?と疑問に思い始めました。そして思い浮かんだこと

は“自分は無知だから”と云うこと。

 

 

 

無知だからこそ、「理解」「思考が生まれる事が出来るんだと思います。

 

「理解」をするということ自体、無知である証なわけです。理解をするた

びに無知じゃあなくなるのではなくて、理解するたびに、自分が無知な存

在であることを認識させられていくのです。理解を重ねているその私の姿

が、常に自分は理解無き存在であることを表していた!

 

82 2このところ、何かすご一くストレスのようなものが心の中に

あるのを感じて、それが今迄にない程で、すぐにでもプッツンと切れちゃ

いそうだったのです。何で急に? と不思議に思いましたけど、今日、そ

の正体が何か判って、ちょっとショックで・・・どうしよう? ・・・困惑し

てしまって、お手紙を書くことにしました。

 

私は怒るようなことがあっても、あまり直ぐにはロに出さない方なんです。

怒っている最中も、言葉使いとか選びながら言っているので、思いっ切り

怒った事ってなくて、後になっていつもああ言えばよかったとか、この位

言ってやればよかったとか思って、スッキリしないんです。

 

 

 

それは私がもともと歯に絹を着せずにものを言う性格で、そのせいで子供の頃からろんな人を傷付けたり、嫌われたりしたことがあったせいだと思います。

 

口はのもと・・・と云うのを経験してきて、身にしみているというか・・・

だから言葉に慎重になったんだと思いますが、どうもそのせいでストレス

が溜ってしまい、言いたいことが言えなかった相手を嫌いになってしまっ

ていたようで・・・それが主人と義母でした。

 

自分の心の中には主人と義母に対する憎しみがあることに気付いて、「え

っ、そんな・・・ とショックでした。

 

私は主人と義母が大っ嫌い! ! ・・・そう叫んでいる自分の憎しみに満ち

た顔と声が見えて聞こえてきます。それと私は多分、まだ結婚なんてした

くなくて、もっといろいろやりかったのかも知れません。

 

すごく急だったんです。自分がかったのですけど・・・短大卒前に妊

嫁に気付いて、二か月後に入籍。その1か月後に一に暮らし始めました

が、ろくに身体が動かなくて(8か月目だったので)生活のペースも家事

もつかみきれないまま2力月後に出産。

 

 

 

しばらく夢の中にいるようで、「どうして私はここにいるの?」「どうし

てこんなことしているんだろう?と言う気持ちで、環境の変化に気持ち

が全く追い着かなかったんです。

 

家事も育児も中途半端で、義母の目は光るし、主人も母に何か言われるのが恥ずかしかったようで、(当然ですけど) 家事にロと手を出して(手伝うとか云う感じではなくて)、だんだん私は劣等感を持ってしまい、最後には開き直っちゃってどんどん性格が悪くなっていく気がして・・・そうしたら「本当は主人は私のこと嫌いなんだろうな」なんて思えてくるし・・・なんかもうグチャグチャです。

 

 

読んでお判りでしょうけど、要するに私が悪いんです。主人と義母に対し

ても逆恨みです。本当に一言も義母に文句を云わなかった上に、自分の両

親にも主人にも友達にも誰にも相談しなかったせいだと思います。

 

言ってはいけないと思ったんです。両親は心配するだろうし、主人は気分悪くしたり、板ばさみで悩むと思ったし、友達は・・・皆独身だったので、話す

気になれなかったんですね。・・・でも今頃こんな思いをすると言うこと

は偽善だったんでしょうか?

 

私の起した行動や言葉に対する反応結果を見たり、任を持つことから逃げているのかも知れません。悪い結果が返ってくるのが怖いんだと思います。

 

でも偽善者ぶって心の中に憎しみを溜めるよりは、自分の醜い部分をさらけ出して、思いっ切り嫌われても、その方がいいのかも知れませんね。頑張ってみます。

 

 

 

82 5この間はくら一いお手紙でしたけど、あの後、私は人が変わ

ったようになってしまい、とにかく部屋中きれいにしたくてしたくて、掃

除をしてまわりました。

 

それが今も続いていて、どうやら3日坊主ではなさそうです。

だ気持ちが良くて、知らず知らずの内に身体が動いているのです。

今朝はゴミ捨てに行く間、周りに咲いている朝顔おしろい花

ものすごくキレイに感じて、感動までしてしまいました。

 

花以外の草や葉っぱもすごくすごく・・・とにかく感動してしまいます。そうしたらハテナちゃんの下に居る時と同じ、すごくリラックスしたいい気持ちになって、ちょっとびっくりしました。明らかに感覚が変化しているようです。

 

それに掃除にかり立てるエネルギーは、どうやら「義母も主人も大っ嫌い

という部分のようで、部屋をキレイにしていくたびに、どんどんエネ

が燃焼して行くのがわかります。マイナスのエネルギーが、プラスの方

向に変換されていっているのかな?

 

 

 

ものすごくエネルギーが満ち溢れている感じです。主人には「これからエネルギッシュママ、ハイパワーママと呼んであげようと言われてしまいました。それだけ『大嫌い』のエネルギーが強かったってことかしら? どんな想念も、まず自分で認めなきゃだめですね。

 

どんなマイナスの感情も、無視や押し込めはいけない。・・・さて、又掃除がしたくて仕方なくなってきたので、この辺で・・・

 

ps3日後、まだ部屋中きれいにし続けています。特にきれいにした

 

とか「〇〇〇だからとか云う理由も無く、気持ちがいいとか、そう

いう以前に、体がただ動いてます掃除のための掃除・・・カナ?

 

なんか、自分でもビックリ! です。

 

 

 

99さて、この間、主人も義母も大っ嫌いなんて書きましたけ

ど、念のために言っておきますが、根本的な愛情は変わりません。

 

でもなんだかあの手紙を書いてから一皮剥けたと言うか、それまで「直したいと思っていた自分の嫌な部分を、すんなり受け止めて愛せるようになりま

した。

 

主人や義母に対する怒りや憎しみ(確かに憎しみもありました)は、実は自分に対する怒りや憎しみであり、「主人や義母が嫌いと云うのは、

実は「自分が大っ嫌い」と言うものだったのです。だから私は自分を愛せ

なかったんです。自分を愛せず、自分を嫌っていたので、他人に対しても

愛を信じることが出来なかったのでしう。

 

私は心のきれいな人間に成りたかった。自分の醜い部分ばかり目について、

なんとかそれを無くしたかった。それが更に自分の醜さを許せなくさせ、

自分を否定して、そしてそれに比例して「きれいな心に成りたい」という

気持ちが増して・・・と、悪循環を繰り返していたのでした。

 

 

 

けれどこの間、手紙にその部分を認めてさらけ出したことで、ふっ切れた

様です。理想を描いて、自分がその理想に近づいていると思いたかった。

 

近づこうと努力するつもりで、自分の醜さを否定していって、見えない振

りをしてしまっていたことに気付かなかったんです。理想からかけ離れて

いることを認めたくなかったんですね。でももう平気です。

 

私はいろんな醜い部分を持っている。これが私。でもそれでいい、それでいい。

怒ったっていい、悔しくなったって、恨んだって、髙慢な気持ちに成った

って、・・・認めればいいんですよね。

 

そういう自分をごまかさずに、ちんと見詰めればいい。想念観察って確かにそういうことだったはずなのに・・・わたしったら・・・「考え方を変えよう。もっと違う角度から見たら、腹が立たないかも知れない」・・・そういう風なことも大切かも知れないけど、一種のごまかしのようにも思えます。

 

ごまかさないで、ちやんと見詰めて、そして掃除するなり刈り取ればいい。

 

 

 

 

生きていれば汚れるんだ。でも光真人さんの言うように、又掃除すればい

いんだ。汚れを認めずにごまかしたって、汚れていることに変わりはない

し、汚れの内容を変えたって、汚れはよごれですものね。

 

最近はヒマがあったら掃除しているので、全然ハテナちゃんの下で瞑想を

していないんですけど、そのことを気にしたら、直ぐに「掃除そのものを

無心に出来たら、掃除そのものになれたら、それは瞑想であると浮かび

ました。でも時間があったらちゃんと瞑想もします。

 

・・・この件で、自分を丸ごと受け入れて愛せるようになったので、他人

にどう見られるかとか、嫌われたらイヤだなとか、あんまり思わなくなり

ました。

 

それに創造のドラマの中で一緖に生まれ生きている仲間だと思うと、どんな人にもしい気持ちになれるんです。もちろんその中で腹が立ったり、嫌悪感を持ったり、いろんな感情が現れるけれど、それもドラマの一場面。

 

 

 

そうやって私達はお互いに共同でドラマを作り上げているんですよね。

私達は創造の見る夢・・・自分の見る夢の中に生きている。

・・・そんな感じがして楽しくなります

 

でもこれも今の平和な状態で感じられるだけのことかな。私は飢えも戦争

の恐怖も貧困や差別も知らない。所詮私の書くことは、ごく限られた世界

から出た言葉でしかありません。

 

でも確かにそれも創造の現れなんですけど。だからいいんです、これで。でも決して満足しないように・・・確信しないように・・・それだけですね。 では又。

 

** でも決して満足しないように・・・確信しないように・・・と云う確

信も無くなってしまうと・・・面白いでしょうね。

 

 

 

 

106私はこのところ、とても気分良く過ごせています。

 

中学1年の頃からの夢に再挑戦し、小学校の頃から好きだった工作で、家

の中を自分好みの雰囲気に作り上げ、割りと充実した毎日です。

 

それに想念観察のお陰で、必要以上に自分を責めることもなくなったし、それどころか、自分の性格上の欠点と思える部分や、悪想念を良い方向へ活用する

ことを発見しました。その結果、自分を否定する必要が無くなり、軽くな

っています。

 

「悪と判断することで、せっかく得られる多くのものを拒否することに

なる事に気付いたのは良かったです。怒りも、批判も、文句も、自制せず、

生まれてきたらそのまま出させることですね。気の済むまでやることです

ね。それが自分を成長させるきっかけを作ります。

 

 

 

自己反省はたやすいです。自分を戒めることは簡単にできる。でもそれは

或る意味では否定です。どんな悪想念と思えるものも、最後まで見守りな

がら(想念観察しながら)全部出し切ると、悪でなかったことに気付きま

す。

 

そしてその悪想念を持った相手に対して、その存在に感謝も生まれる

んですね。ムカつく相手が居ることは幸せです。思いっ切り厶力つきまし

ょう。ただし、その自分を自覚しつつ・・・

 

その厶力ついて出てきた文句の言葉たちが、いつの間にか自分に何かを教

えてくれていることに気付きます。だから徹底して厶力つくこと。中途半

端は駄目ですね。

 

相手の気持ちを考えながらなんてダメ!自分を責めながらなんてダメ!自分に正直になる。そしてその自分をちゃんと見守る。

 

これを実行するようになってから“無意識の言動”と云うのが恐いという

か、嫌だというか、「常に自覚していたい」という気が強くなりました。

 

自分が何を考え、何をしているのか一つ一つどんな小さな事でも自覚し、

それを把握していたいのです・・・と言っても、なかなかうまくいきませんが。

 

 

 

** 厶力つくことや、恐怖、不安、羞恥、羨望、嫉妬等々、全てのマ

イナス想念というものを、イメージで演出してしまうと面白いです。

 

瞑想する時、何が自分にとって恐怖であるか調べて、例えば、人に

恥をかかされたり、笑われたりするのが、一番自分には恐怖だと思

ったら、イメージの中で、さんざん人に馬鹿にされたり、笑われた

り、恥をかかされる場面を作りだして観察するのです。

 

商売がうまくいかなくなるのが不安ならば、倒産のイメージを作り、

人に罵倒されたり、借金取りに追い回されたり、家族に心配かけた

り、プライドがメチャメチャに砕かれたり・・・と、思い付くかぎ

りの倒産劇の脚本を演出し、観察し続けるのです。

 

現実に突然襲われるマイナス想念には、普通人は巻き込まれてしま

いますが、こちらから先に迎え擎ってしまえば、巻き込まれずに、

征服することが出来ます。恐くなくなるまで、徹底的にやることを

お薦めします。中途半端にしておくと、マイナス想念のオバケが出

てきますヨ。ウ〜ラ〜メ〜シ〜ヤ〜〜って。

 

 

 

今迄嫌だと思っていたマイナス想念のイメージが恐ろしくなくなり

ます。そして解放されてきます。

 

私も“拷問”に恐怖を持っていましたので、私が八つ裂きになる場

面や、子供が磔になる場面、夫が火あぶりになるシーンなどをイメ

ージして観察し続けました。

 

その観察で恐怖も穏やかなものになってきましたが、それよりも、今起っていないことに対して考える無意味さを認識させられました。人間のマイナス想念は、皆過去や未来に所属しています。たったの今今に集中していれば、常に平安そのものでしかないこと・・・に気づかされたと言

うことで、骨折り損のクタビレ儲けの好きな編集部でした。