未来の到達点 2 自分を踏み台にして自分を育て、キラキラ星のように輝け
未来の到達点 2
真理の学びをし、自分自身がキラキラ星のように変わったと確信できる人
が何人おるじゃろうか。時代は容赦なく変化している。来るべき未来が輝
ける未来であることを君達は教義を通して知っているし、又信じてもいる。
しかしその様な日和見主義的な期待感は、容赦なく粉々に叩き潰されるじ
ゃろう。
身近な例をあげて言えば、君達は真理の学びを通し、自分自身が変化し、
毎日楽しく暮らせるようになったと言うかもしれんが、君達の身近な人間
はどうなんじゃろうか。その人たちの目は命キラキラ星が輝いているだろ
うか。それとも腐ったイワシの目をしているのだろうか。
死人の目をひんむいてみると、瞳がそこにあるだろうか? ・・・そこに命
は見えんはずじゃな。これからその様な人間が一杯増えてくるじゃろう。
君達がいくら楽しい日々を暮らせたとしても、目の前にいる人間の目が腐
っているようでは話にもならんね。
確かに我々を通した話を聴いたり、又この様な話の出来る人に出会う瞬間
はキラキラ星になっておるかもしれんが、そこを離れると元のもくあみで
ある。自分が心底打ち込める仕事に出会えることは幸福なことである。
がしかし、そこを離れればキラキラ星は消え去り、元のもくあみである。
今君達とつながりのある人間関係を全て断ち切ったとき、君達の瞳の奥の
キラキラ星は消え去り、又もや元のもくあみである。
さてこの様な現実に出くわした時、君達の学びがいかに役立たずであった
かを思い知るわけだが、それでもなかなか気付かず、手を変え、品を変え、
人を変え崩壊しておる人間のなんと多いことか!
超越的世界という理想と、現実とのギャップの中をさまよい続けているの
が今の君達だ。現実が苦しくなると超越的世界に逃避したがるもんじゃね。
しかし長年こういう学びをし続けていると、逃避していることを気付かな
いくらい麻痺してくるものじゃ。これは現実との遊離を意味する。
さて、現実にのみ目を向け過ぎてもやはり同じ様な状態が起ってくるもん
じやね。学んだ結果、現実がキラキラ星にならなかったり、身近な人間の
目に生命力の光が灯らないようでは、決して真理の学びとは云えんじゃろ
う。
それは現実という事実をただ歪めているに過ぎない。それを創造の大いなる愛の動きとして受け取ることは、超越的世界を学ぶ人間の最もたちの悪い言い訳である。人それぞれのレベルがあるからだとか、進化の度合いが違うからだとか、そんなものはていのいい言い訳である。
今この嘘は、無痛状態で君達の心を支配しておる。どの様な人間も命キラ
キラ星になれる。だからこそ、その人は生きておれるわけじゃよ。
創造とは命キラキラなんじゃから、君達がそれを感じないということは、
超越的教義をいくら学んだところで、全く役立たずの代物であるというこ
とだ。
君達は今、この教義という白い紙に書いた文字の中のつながりでしかなく、
そんなもんは現実を生きる上で百害あって一利なしである。
創造の法則を学ぶならば、自らがキラキラ星になる努力をし、そうなれな
い原因がどこにあるのかを日々探求する姿勢こそが真理の探求であり、そ
こに確固たる答えは見つからんかも知れない。しかしそれでも探求する姿
勢こそが真実の探求なのである。
実際問題こんな素晴らしい教義?を学んでも、身近な人間の目に生命のキ
ラキラ星が現れないようでは話にもならんわ。相手が自分にとっての気付
きを与えてくれるとか、そんな言い訳ももういい。貴方がその人に対して
何をしたいかが大切なんじゃよ。
全てが創造の愛である。こんな言い訳は無い。人がキラキラと生きること・・・それが難しいと考える時間があるんだったら、何故その問題に向かって純粋に探求しようとしないんじゃ。
何年たってもさほど変わっておらん!・・・人間は。
そういう生き方に、そういう考え方に慣れきってしまっていることこそが
一番の問題なんじゃよ。
子供はあっという間に成長する。何故子供のように成長してはダメなのか
ね? 誰がそんなことを決めたのかね?
人は日々変わる。驚くほどの速さで変わっていく。まして十代、二十代な
らば、その変化に目覚ましいものがある。それを妨害しているのが親であ
り君達自身なんじゃよ。原因は一つしかない。
人間には本来根源的力、根源的本能の中に考える力、感じる力がセットさ
れている。さて君逹の中で何人が「私の中の考える力を育てていこう。感
じる力を育てていこう。それが何であるのかは分からない。しかし外の言
葉(知識、教義)を知ったところで私の人生は幸福ではなかった。
あてがわれた教育では決して人は幸福にはなれない。だからこそ、私は考
える力を育てていこう。感じる力を育てていこう。」と(力・ン・ガ・エ・
テ・)自分に云えただろうか!
若者の無気力化や嘘の自由の行動は、あてがわれた教育では人は幸福には
なれないということを示しておる。人間が安心して満足している度合いが
強ければ強いほど、その周りの人間の変化は遅い。そういうもんじゃよ。
とにもかくにも、一生に出会える人間は数が知れている。だからこそその
数少ない人間の出会いが、お互いのキラキラ星を育てていけるように願っ
ているわけじゃ。そしてそんなことに五年も十年もかかるようでは話にも
ならん。
人間とは、例え親子と云えどもお互いの成長を、お互いが変化しようとす
るキラキラ星の叫びを、どこかで妨害しているもんじゃよ。何が楽しいん
じゃろうね。キラキラ星のように生命力を満ち溢れさせ、自分自身を鼓舞
しながら生きる姿こそ、真人の姿である。
君達は自分自身を輝かせることに、もっと真剣に取り組まないといけない。
取り組む前に諦めているのは、ただの我が儘としか言いようが無い。
これは最も基本的な愛である。基本的なことも満足に出来ないのに、私の
言わんとしていることが実感できるはずがないだろう。もっと自分自身と
付き合っていくことに希望を持ってもらいたい。そしてもし希望が持てな
いならば、その原因がどこにあるのかを探求しなさい。そしてそのような
ことを探求できる仲間との出会いを求めてご覧。
君達が探求している仲間とは、まだ教義に縛られた仲間であり、真実自分
をさらけ出す仲問ではないのだから。
時代はこれから全く予想だにしない様相を呈してくるだろう。手遅れにな
らん前に言っておくよ。その時に唯ーカになるのは、創造でも神でもない。
それは君の深いところにある考える力、感じる力、それを育てていこうと
する姿勢・・・その姿勢こそが全ての全ての源なんじゃよ。
そしてそうなれない原因に対して、真正面から取り組んでいける仲間こそ、
真実の仲間なんじゃよ。そこにきて初めて希望と勇気と安心に根付いた人
生が始まるわけじゃ。
今、私は考える力、感じる力とは、こういうことだとは述べていない。
ただ自分自身を育てていこうとする心を育てて欲しいのであって、宇宙が
貴方を育てているのだなどと云う超越的言葉は、今私の言っている基本的
なことに取組み続ける人であって、初めて宇宙に育てられているというこ
とが言えるんじゃ。
一切の霊的教義を拒否し、自分自身を育てるのは自分自身しかなかった。
今の自分がどの様な自分であっても、その自分を踏み台にして成長し、髙
めていく以外に道は無いんだと云うことを実感すること。
霊的教義を踏み台にしたり、人生の経験を踏み台にしたり、そんなことを
するから成長せんのじゃよ。どんな自分であっても、今の自分を踏み台に
して自分自身を育てていく以外に道は無いのである。
そしてそそれは永遠に続く道であり、私が真実伝えたい霊的教義である。喜びで満ち溢れた自分自身すらも踏み台にして、髙みに登りつめて行きなさい。それこそが無限なんじゃよ。今の自分自身を踏み台にして成長しようと決意したその瞬間が、宇宙と一つなのである。健闘を祈る。
M助を通したFUJI日本におけるメッセージは、これで全て終了する。
ご苦労さんじやったM助。これから後、FUJI日本におけるメッセージは我
々以外の存在が担当することになると思う。
水は休むこと無く流れていく。
水は水自身を踏み台にして、水は水自身に目を向け、
水自身の成長を見守り、水自身を愛で包み、
水自身はそれだけで万物を育み、水は水自体がぶつかり、
そしてはじけ跳び、ドラマを展開し、
それ自体の歩みの中で、水は水自身を育て、そして流れていく。
クリエ
いつの日かお会いできる日が来るかも知れません。その時を楽しみにして
います。その時は人と人として出会いたいものですね。エリーナファミレ
1995・10・8宇宙連合任務完了