意識体の演出する人生
3 意識体の演出する人生
読者の皆さんの多くは「良識の人」であり、この本を手にしてこれから21世紀人を目指そうとしています。そのために想念観察がなぜ必要なのでしようか。
そもそもなぜ私たちは、喜びや苦しみといった想念とともに生き、時には落とし穴に落ちたり、そこから這い上がったりするような体験をするのでしょうか?
なぜ私たちは、人生のある時期にさまざまな価値観や信念(よろい)を着込み、しばらくしてこれを脱ぎ捨てていくという面倒なコースをたどるのでしょうか?
繰り返しますが、意識の世界に境界はありません。
自分と他者を隔てるカベなど本当はないのです。
しかし、私たちがこの世に生まれてくる時は、人間という「個体」として生まれてきます。
「固有」の肉体を持ち、「個性」という心を持ってこの世を生きることになります。
自分と他者を区別するな、というのが土台無理なのです。
人生を送る中で、周囲のさまざまな人々との摩擦(触れ合い/トラブル)を経験する時、私たちはいやがおうでも他者との間のカベ(ギャップ)を意識せざるを得ません。
ここがポイントなのです。
「もともと違いがない」 「カベなどない」ことを理解するためには、わざとカベを作ってみて、それに由来するさまざまな問題を体験してみる必要があります。
成長するにつれて、不必要に「自分」を全面に押し出すことを止め、互いを認め、思いやる気持ちを育むようになります。
友人 ・同僚・ 夫婦の間で今まで誰もが無意識にやってきたことです。
問題点は、そのために今まであまりにも大きな犠牲を払ってきたこと。
「自分」を守るために厚着し過ぎて身体が重くなりすぎ、何も学ぶこともなく一生を終える人多々います。 一生どころか何度も生まれ変わりながら、同じ問題がクリアできずるにいる場合もあります。
「生きる」ということがどういうことなのかの自覚もありませんでしたし、
「意識の世界ではすべてが同じ ( 一つ) 」という視点も欠けていたからです。
他人より裕福でありたい、強くありたい、優位でありたい、美しくなりたい、愛されたいと強く願う気持ちは、自分がそうでないと思い込んでいることによります。
「自分」を守りたいのです。貧乏だ、弱い、劣っている、醜い、愛されていない等々の不足 ・不安感は、自分を他者と比べなければ生じません。
他者との違いにばかり目が行き、これを穴埋めするために厚着した結果、返ってトラブルを引き付けてしまうという悪循環に陥っているのです。
しかし、繰り返しますが、それも意讖体の描いた筋書きの一部として、とうに織り込み済みのことなのです。
つまり、誰もが人生上のテーマを持ち、それに絡んでしつこい想念に囚われ、場合によってはアクシデントに見舞われるわけです。
幼児期のトラウマや、その後のさまざまな辛い体験がもとで、固い殻の中に閉じこもり、人生の可能性を狭めたり、またくり返し同じようなトラブルを引き付ける人はたくさんいます。
しかしここで、親やあなたを辛い目にあわせた人を怨むのは筋違いなのです。
どのような親のもとに産まれ、人生のどの時期でどのような体験をするか、すべて意識体の筋書きどおりに進んでいるのです。
結局のところ、どのような体験も自分自身で引き付けています。
辛い体験も、元はといえば意識のバランスをどこかで崩し、特定の想念を選り好みするよう自分で仕組んだ結果として引き付けたのです。