21世紀人になるために

宇宙の方々の仲間に入るには「想念観察」は必須条件です!!

水瓶座讃歌28 パート6

[目次]

コミュニケーションについて   エリーナ

ハテナ (人体のエネルギー反応について)  エリーナ

無言の言  クリエ

依存するなとは何かについて  かない厳しいエリーナ

想念にいて   かない厳しいエリーナ

 

 

コミュニケーションについて    エリーナ

 

コミュニケーションを一言で定義するなら、葛藤を通して得る信頼という

副産物に例えることが出来ます。貴方逹のレベルにおけるコミュニケーシ

ョンとは、葛藤を通して信頼を学ぶと言うことが、最も道理に適っている

と言えるでしよう。しかし貴方にとってコミュニケーションとは、出来る

ことならば、葛藤を体験せずに得られるものならば得たいと考えているは

ずですね。人間関係の苦痛は出来ることならば体験したくないと誰しもが

考えているはずです。

 

しかし現実は、貴方の想いとは裏腹に葛藤が起こり、葛藤が信頼を育てる

種子であるとは、なかなか思えないものです。

 

ここで言葉というものについてよく考えてみましょう。

 

今葛藤に苦しんでいるのであれば、葛藤という言菜を剌激と言う言葉に置

き換えて瞑想してみて下さい。

 

人間関係のコミュニケーションを葛藤と捉えるのではなく、剌激と捉え、

又、刺激的進化と捉え、又、刺激的リズ厶と捉えてみてください。

 

 

 

 

 

貴方が今まで葛藤として捉えていた感覚に、瞬間ですが微妙な変化が起こ

ったはずです。

 

否定的言葉・・・その言葉が生まれたその時に当たっては、葛藤という言葉

は肯定的意味を持って人間に理解されていました。しかし時が経つにつれ

言葉も老いていくものです。

 

老廃物が体外に流れ出、新生なる細胞が体内に満つるがごとく、その法則

に沿って言葉というものをよく吟味しなさい。

 

貴方の今現在認識されている言語は、既に老朽化した死言語であり、生言

語への転換を余儀なくされているのです。

 

話を元に戻しましょう。

 

人間関係の苦痛・・・これは誰しもが体験するわけですが、その体験を通し、

不平不満に陥らない人はまだまだ全地球人ロの1%にしか過ぎません。

 

たったの1%です。

 

 

 

 

その1%の人間が地球を支えていると言ってもおかしくはありません。

貴方がもしその1%の中に入りたいという素直な感性の持ち主であるなら

ば、人間関係の苦痛というものをよく吟味し、考える必要があります。

 

我々はよく言葉の使い方を変えることによって、人生の問題というものを

非常にスムーに克服して行けるという法則を知っています。

 

実に簡単なことなのですが、人間関係の痛という言葉を、人間関係のデ

ザインの変化と言う風に理解することもあります。又、人間関係の苦痛を

波動と波動の調整という風に捉えることもあります。

 

又、感情の純化した状態を理解するプロセスという風に捉えることもあり

ます。又、貴方が変化することにおける必要善と捉えることもあります。

 

まあ、このように人間関係の苦痛と言っても、いま貴方が感じている受取

方でなければならないと誰かに命令されている訳でもありませんし、貴方

がただ四角四面の中で、人間関係の痛というものを勝手に思い込んでい

るだけです。どの様に考えてもそれは貴方の自由であり、又、貴方の責任

でもあります。

 

 

 

 

 

大切なことは、貴方自身がコミュニケーションにおける苦痛という問題を

よく考え、貴方の答えが大切なのです。

 

我々の答えでもなく、どこどこの本の答えでもなく、貴方の考えた答えが

貴方にとっての真理であり、又、その答えを通して、貴方が受け取る報酬

は、貴方にとってそれがどの様なものにあるにせよ、やはり貴方の責任

のです。

 

不平不満と言っても、実に根が深く質の悪いものです。

 

それを克服する方法として一番有効だと思われるのは、貴方が一つの問題

についてよく考え、その貴方の出した答えによって、貴方の環境がどの様

に変化するのかを、貴方の目でしっかりと確認することです。つまり、貴

方の欲したものを、宇宙はプレゼントとして貴方に与えます。

 

つまり、全ての環境は貴方の自由意志のもとに、貴方が受け取った、貴方

責任を貴方は確保した・・・ということになる訳です。

 

上記のことをよく理解し、実は外の力によって(常識、国家、政治、思想、

哲学、倫理、習慣、)を受けているのではなく、外に見える或る力を

貴方の自由意志のもとに、貴方がそれを利用しているにすぎないのです。

それは赤ん坊でも同じことなのです。

 

まず創造霊は外に見える力から、自らを進化させる必要な情報をインプッ

卜し、それを自らの成長の為に使いこなして行きます。しかし使いこなさ

ずに受け取ったとき苦悩が生じます。それは代金を置かずに品物を奪う

うなものです。

 

 

 

 

貴方の国の諺で言うならば、宝の持ち腐れという表現も出来ますね。

 

どのような現象に見える情報であっても、それを使いこなすだけの能力が

貴方の中でまだ育っていないということを、貴方はよく自覚しなければな

りません。

 

我々は外からの情報に対し判断しないように、又鵜呑みにしないように、

又距離を置くようにと促してきたのは、貴方逹が余りにも情報というもの

を人生の武器にしすぎる傾向が強いからなのです。

 

 

つまり、コミュニケーションの痛というものは、情報と情報の反発とい

う風に理解できる訳です。しかもそ情報に対して、一面的な視点でしか

物事が見えない、実に柔軟性の無い人間同志が、情報と情報のぶつけあい

をし、下らない時間つぶしをしているのが現実なわけです。

 

私個人においては科学者ですので、科学的な立場にたって一面的にものを

みることの愚かさを告してきましたが、それにつけても地球人の凝り固

まった思考能力には、正確には思考する力の無い能力・・・には開いたロ

もふさがりません。

 

 

 

 

 

つまり、我々の斬新な説明、常に視点を変えて解説する視点、又難しいこ

とを簡単に説明する視点、それに接したことの或る人たちは、常に驚きと

喜びとをもって我々の言葉に耳を傾ける訳ですが、それは裏返せば、そこ

まで思考する能力の無い人間だと言える訳です。

 

これだけは言っておきます。

 

貴方が今幾つであろうとも、貴方の人生体験、価値観、能力など、宇宙か

ら見れば何一つ役に立っていませんので、安心して生きて下さい。

 

我々は、又私は、科学者の姿勢として、人間の姿勢として、貴方の国の言

葉で表現するなら、「虚心坦懐という言葉をとても愛しています。

 

地球人のプライドなんかは、何の役にも立たないということをよく覚えて

いて下さい。             エリーナ・ファミレ

 

 

 

 

 

ハテナ (人体のエネルギー反応について)

 

ハテナを使用ことによって、人体に種々雑多な症状が現われてくる人

もいるだろう。医学で言えば、それなりの病名が付くだろう。又、原因の

わからないケースもあるだろう・・・が、そのようなことはどうでもいいこ

とだ。貴方が自分で考えて判断すればいい。

 

問題は、不安に陥りやすい人々に対して一言忠告しておこう。

 

気にするな!・・・ただそれだけだ。

 

常日頃退屈な人生を生きているから、些細なことで不安になるので。もっとエネルギッシュに人生を楽しむ事を学びなさい。

ここ(FUJ I日本)は離れ小島の集会所ではない。

 

宇宙に無限にある遊び道具の一つにしか過ぎない・・・過大評価するな!。

遊び道具は自分で発見しなさい。

 

最後に不安も又特別意識(劣意識)の裏返しにしか過ぎない。

 

暇だから遊び道具を探すのではなく、遊び道具を探すこと・・・その行為が

遊びそのものなのだ。

 

エリーナ

 

 

 

 

無言の言  クリエ

 

君はこれから心の力という問題について取り組んでいかざるを得なくなる

だろう。

 

何故ならば、1万年にもわたり、心の力という問題について触れてこなか

 

ったからである。心の力はありとあらゆるイマジネーシヨンを現実化する。

しかし、その現実化する心の力は常に成長を余儀なくされるものである。

何故ならば、それは宇宙の計画だからである。

 

成長するということを好ましからざることとする記憶が、遺伝子にインプ

ットされている。

 

人間とは何と変化に弱い生命であるのだろうか。

 

 

 

 

好むと好まざるに拘らず、人間生命体は変化を余儀なくされるものである。

それは水の波紋が広がり消えるように、生が死に変わるように、100

後誰一人地球に存在していないように、生命は変化という学習を行わなけ

ればならない。その学習は決して難しいものではなく、心の力の法則につ

いて学ぶだけでよいのである。心の力ほどエネルギッシュな現実はない。

しかし人間はその心の力のパワフルな実相に気付かない。

 

今君が心の力として使用している哲学(価値)は、今現在においては有効

期限の切れたパスポートのようなものである。

 

心の力を引き出すのは記憶である。

 

 

 

 

君は記憶という体験を通して現実を創造していく生命である。しかしそれ

は、その瞬間における真理である。わかりやすく説明してみよう。

 

 

貴方が女性ならば、母性というものがあることは承知していると思う。又

その母性に苦しむ人もいれば、その母性に慰められる人もいる。しかしそ

の母性のもともとの源を辿ると、そこに母性が生まれる因果関係、状況証

拠が必ずある。つまり、全ての観念の原形があるということである。

 

結論から言うと、男性が母性であってもよかったのである。べつに女性に

母性が与えられなくてもよかったのである。

 

私が何を言わんとしているのかは、つまり、全ての価値にはその原形が必

ず在るということである。例えで話をすれば、戦争又戦乱の時代に生まれ

た価値、原形は、その時代を無事航海する必然性にかり立てられて生まれ

てくる。しかしその戦乱が終わり、時代が変化したときには、その戦乱の

時代に必然性が在って生まれた価値(原形)は、使い古しものにしか過

ぎない。しかし、君の伝子にはそのときの記憶が克明に残っている。

 

 

 

 

そしてそのときの記憶を現在に通用させようとする。そこに葛藤が起こる

のである。

 

君の会話の内容を私は調査する訳だが、10億年前の記憶が語ったり、

100万年前の記憶が語ったり、まだ君が体験していない未来の記憶が語

ったり、その会話は玉石混合である。そこで君は葛藤を感じ又葛藤を感じ

ないフリをして、その時代の常識に自らを押し込もうとする。

 

 

しかも無意識にだ。その無意識すらも伝子に記憶されているパターンにしか過ぎない。この状態において、君にエネルギッシュな創造性を表現することは不可能に近いことだと言える。何故ならば、どの様な創造性をも一つの型に

はめ込もうとするから、当然その創造性は非常に混乱を生むのである。

 

心の力についてよく考えて欲しい。その内容が何であれ、それはいま現在

の現実の中で、現実を通して、現実の因果関係を通してあるのではなく、

現在において通用しない錆び付いたナイフのような、役に立たない伝子

の記憶が、その記憶を現実化しようとして、そのような現実があるように

見えているだけである。

 

 

 

 

難しく表現するつもりは無いのだが、言葉を使うとどうしても難しくなっ

てしまう、つまり日々新鮮に、日々豊かに、々活き活きと生きるには、

過去の記憶は邪魔だというだけである。もっと判り易く言うと、失ったお

金は戻らないということである。

 

失った信用は戻らないということである。撒いた種は自分で刈れというこ

とである。不平不満嫉妬でで苦しむのは、それを創造している貴方である

ということである。これら全て、記憶が行っているのである。

 

 

完全に管理されたパターンのエンドレステープである。その記憶の中で最

も長い時間を経過した巨大な記憶とは何か・・・それは依存である。

 

君は無限の転生の中で、常に誰かに助けられてきた。それはそれでよいの

だが、結果として、それは君を自立性の無い生命としての生き方を余儀な

くしてしまった。その責任は我々にも当然あるのである。しかし無限の計

画においては、それは必要なプログラムとして完全に機能し成功した。

これから君が克服すべき問題は依存という記憶であり、見捨てられたくな

いという記憶である。まだこの言葉を聞いても実感の持てる人は少ないだ

ろうが、宇宙の計画が否応なしにその認識を君に植え付けるだろう。

 

 

 

 

そのとき恐怖すればただそれだけである。非情に思うかも知れないが、唯

一の根源から分裂した、唯一の根源である君は、結局君一人で川を渡らね

ばならないのである。

 

何故ならば、分裂はいずれ統合を余儀なくされる。それは根源の本能であ

る。それに逆らいつづける記憶は、しょせんは力の無い砂の楼閣にしか

過ぎない。地球を悲しみの星と言った存在がいるが、私は地球とは、甘え

の星であると感じている。

 

成長すること・・・変化することとは、今現在君が考えていることとは全く

異質な事であり、成長する変化するとは・・・競争ではない。

 

ただ原点に戻ること・・・そしてその「原点という言葉しか宇宙には無い

のである。原点とは何か・・・遺伝子に記憶されたパターンに頼るなとい

うことである。進化とは原生林を開拓していく姿とよく似ている。

 

 

 

 

 

それは一見困難に見えるようだが、君の中に困難という記憶が無ければ、

ただ、何かをして真剣に遊んでいるとしか言いようが無い。それ以外に表

現のしようが無い。

 

地球の変革期に当って、それを困難なことと考えれば、地球はより困難な

道を選択せざるをえないであろう。それはもう既に死骸化したパターン的

記憶にしか過ぎない。

 

全て君の心の力において現実は動いていくのである。

 

 

人生を豊かに、大らかに、純粋に、素直に生きていく術は、一つしかない。

君の知っていることは、何の役にも立たないということだ。

 

 

 

 

依存するなとは何かについて

 

自分自身に対して依存するなということである。

 

では、自分自身に依存するなとはどういうことなのか・・そもそも自分

とは何か?・・・これを話せば君が骨つぼに入っても理解出来ないかも知れ

ないので、簡単に話しをしてみよう。

 

要は君が感じる全てそれが何であれ君が今生きているということは、

常に何かを感じている・・・常に種々雑多な剌激を受けていることは明ら

かである。

 

神を信じる人は、信ずるという剌激を受け、神を信じない人は、信じない

という剌激を受け、どちらに転んでもイエスかノーかの剌激を感じている

ということである。

 

 

 

 

 

自分に依存するなとは、その剌激に依存するなということである。

 

貴方が人との語らいの中で、又人との出会いの中で楽しみを見出すーーそ

れは心地よいフィーリングであるには違い無い。それに依存するなと言え

ば、君は困ってしまうだろう。

 

このフィーリングは君にとって肯定的出来事であるから、それを手放すに

は勇気がいるはずである。一方人との出会いの中で、会いたくない人に出

会った場合、それは君にとって愉快でないフィーリングであるはずだ。

 

この刺激を君は手放したいはずだ。

 

 

 

 

 

これは君にとって否定的出来事であるはずだ。

前者の肯定的出来事を善とするなら、

 

後者の否定的出来事は君にとって悪である。

つまり善に依存し、悪を拒否するという

 

囚われの所有欲的発想、これが君の実情である。

 

さて、理解を得た我々においては、その前者も後者も等価とみなしている。

 

それは善のフィーリングの中に悪のフィーリングもあるだろうし、悪のフ

ィーリングの中にも善があるだろう。今悪に見えることも、10年後、善

に見えるかもしれない。今、好ましくない不愉快な感情も、10年後、大

きな喜びを手に入れるキッカケであったかもしれない。

 

このように我々においては、善悪とは等価であることを理解することによ

って、自分に依存する事から離れることに成功した訳である。

 

 

 

 

さて、依存とは結局のところ想念の代名飼と言ってよいだろう。

 

君がこれから学ぶに当たって必要なことは、どの様にすればーー、どのよ

うな方法を用いればーー、自分自身に依存しなくて済むかという事を学ぶ

ことである。

 

 

 

 

想念にいて

判り易く説明してみよう。

 

これは我々が許される範囲内の到達した理解である訳だが、つまり想念と

は原子のエネルギー、判り易く言えば種を植える前の畑にも似ている。又、

大学に入学する前の受験にも似ている。又、仕事を覚えている研修期間にも似ている。

 

丁度料理を習っていることにも似ている。

 

想念とは、生かしき必然性を持って現われたもの、と理解して欲しい。

 

君達の真理の教科書を我々が読むと、どうもまっ香臭い。

 

想念から離れろとか自我から離れなさいとか、それで実際問題として、

出来た人間が何人いたか・・・3 04 0年かかって真理を勉強し、結局

のところ何が手に入ったか・・・だ。

 

結局何も手に入っていず、自分をより一層盲目にしているのが現実である。

そんな大変なことを誰がしたいだろう。

 

真理を学ぶことほど楽な生き方は無いのであり、自分を裸にすることほど

楽しくおしに満ちた生き方は無いのである。

 

 

 

 

 

ア〜〜ア〜ア〜それなのに〜、そ一れなのに〜〜

 

ア〜〜それなのに、君の真理を学ぶ姿勢は何と堅苦しいものであろうか。

 

特別なことをしている訳ではないのだから、立派なことを教えることでも

ないのだから、真理を学ぶとは、ほめられることでもないのだから、気楽

にやって欲しいと切に願っている・・・もちろん真剣に!

 

さて、話しがズレので元に戻そう。

 

想念とは生かしきれていない粗雑な原石である。まだ、人のあたたか

さが染みついていない家のようなものである。又、着こなしていない服のようなものである。

 

そして転校先の学校に初めていく日のようでもある。

貴方が女性なら、 子供が生まれる瞬間のようでもある。

 

 

 

 

 

想念とは、つまり依存とは生かしきっていない原石にしか過ぎない。

そしてそれは知ったかぶりの耳学問でもある訳だ。

 

想念・・・つまり依存という宇宙エネルギーを、ぜひともって生かしきって戴いて、この銀河系にその依存という宇宙エネルギーを通して貢献していただきたい。君が今すべきことは、心が感じている様々な感情を、それが何であれ、そのエネルギーを生かしきって欲しいという君の嫌虚な姿のみが大

切なのである。

 

マイナスに感じるエネルギーも、プラスに感じるエネルギーも、君の成長

のために生かしきって欲しいという真摯な姿だけが大切なのである。

 

 

自我を無くすとか、所有欲から離れるとか、依存するなとか、

捨てること考えなさい。

 

汚いものにふたをするのではなく、その汚く感じるものさえも生かしきつ

て戴きたいという姿だけが必要なのである。

 

 

 

 

 

 

君の苦しかったことも辛かったことも、

自分の情けなさにがっかりしたことも、

 

自分を傷つけたことも、他人を傷つけたことも、

不平不満の中で自分を見失ったことも、何もかも、

全ての全ての全ての体験を生かしきって欲しい

 

という姿のみが大切であり、

 

君がその願いを宇宙に宣言したとき、

 

 

 

 

もう既にその願いは完全に生かしきられ、君は完全なる奇跡に満ちた人生

を生きることになるだろう。それ以上の知識は全てごたくである。

 

生しきって欲しくない人間は獣と変わらない。

 

君よ、真剣に上記の言葉を内省せよ。

 

君は生きているのか、それとも生きた振りをして死んでいるのか。

 

生かしきるとはどううことなのかーー君の全存在が、今この瞬間宇宙の

花として咲き乱れていることを知ったら、君はどの様に感じるだろう?

喜ばない人間はいないはずである。しかし、このような想念が流れてくる

はずだ。

 

「そんな事は信じられない。

 

本当にそうならば素晴らしいけど・・・」

 

 

 

 

 

その他いろいろ否定的想念が浮かんでくるはずである。ここに君のがあ

る訳だ。不可能を可能にするのが宇宙である。今出来ないことが未来にお

いても出来ないことには決してつながらない。心の中に限界を作ること

ど悲しいことは無い。人は本来生きる光であるからだ。

 

光は闇を貫き、その領域を無限に広げる。

 

進化とは可能性への追及でもある。それを楽しく力を抜いてやっていこう

とするのが我々の的でもある訳だ。

 

さて、どのような想念が浮かんでこようとも、それが如何に下らないよう

に思えても、それは君にとって重な験として生かしきって戴きたいと

いう謙虚な姿を保ちつづけて欲しい。

 

その願いの結果、君の目に映る環境がどの様なものであったにしても、そ

れは君が生かしきって欲しいという願い、その強く願い求めた結果として、

生かしきられた愛として、受け取ることが必だと感じる。

 

つまり、何があっても、全て生かしきられた宇宙の花として受け取れば良

いということであるーーーーー 理屈抜きに!・・・・・・ただそれだけである

 

 

 

 

理を求める人間は、今の時代においては腐るほどいる。しかし自分とい

う全存在を美しいことも醜いことも含めて、自分という全存在を生かしき

って欲しいという祈りを行う人間はまだ僅かしかいない。

 

くれぐれも勘違いしないように。

 

かない厳しいエリーナ