21世紀人になるために

宇宙の方々の仲間に入るには「想念観察」は必須条件です!!

水瓶座讃歌29 パート3

 

識列車!?が、私の中を通り抜ける

 

札幌 Y田美樹

 

2 8号の機関誌と最近買った或る本を読んで、長い間私の頭を混乱させて

いた隣組回覧板の中身について、僅かですが分かった! ?事がありました。

実は中国から戻って以来、職探しもせず、ふらふらとしていたのですが

 

11月からずっと、時間が有るんだから少しは真理について考えなければ、

と言う衝動に駆られて、ずっと機関誌を最初から読み直してみたり、マイ

ヤー書を読み返していたりしました。もう一日中その事ばかり考えていて、

自分でも不思議なくらいです。これはヒョッとしたら、ハテナ効果かも知

れませんね。

 

ことの起こりは瞑想中に唱えている言葉無限からでした。

 

この言葉を言い続けている時に、フト「私は無限という言葉を使っている

けれど、ハテ、無限とは実際どういう意味なのだろう?という疑問が浮

かんできました。それ以来、上記のような衝動がムク厶クと湧き出してき

て、止めようがなくなっていました。そうこうしている内に、12月に不

思議なことを体験しましたので、まずそれから報告します。

 

 

 

 

ありがとう瞑想”・・これは実に簡単でそして効果のあるものだと思い

ます。特に私のような物事を否定的に捉える性格の人や、自分に自信の持

てない人には、かなりインパクトがあるのではないかと思います。そうい

う人には絶対! ? ・・・お勧めです。

 

私はただ単にありがとうと心の中で言っているだけで、ごく小さな体

の痛みを消してしまうことが出来るようになりました。これはハテナ

があっても無くても出来ます。

 

12月の或る外出した日、毎年冬になると左足の中指のつけ根が痛んで辛

いのですが、歩きながらありがとうと言い続けていると5分もしない

うちに痛みがスッと無くなっていきました。家の中でじっとして集中して

いる訳ではないし、歩きながら痛みが無くなるというのは驚きました。

そして家に帰るためにバス停まで2 0分位の間と、バスを待っている10

分位の間、ずっと心の中で「ありがとう御座いますと言いづけていま

した。この時は別に何かを期待していた訳ではなく、ただ何んとなく言い

続けていたくなったから言っていただけなんですけど、歩いている間は、

何んとなく楽しいなという気分が心の中に浮かんでいるだけでした。

 

 

 

 

ところがバス停でもしっこく言い続けていると、急に目からウロコが落

ちるというか、目の角膜に張り付いていたうすぼんやりしていたフイルタ

一がスッとはがれていくような感覚が現われ、その瞬間から風景がクリア

一になったというか、見ている風景は全く変わらなく見えるのだけれども、

何かがちょっと違う。別に周りの風景が光輝いて見えた訳じゃあないです

し、そこに在る物質の本質が見えたなんて言うものじゃあないのですけど・・・ただ見ている者の意職が変化するというのは、同じ景色でも

劇的に違うというような感覚は分かりました。(うまく表現出来ない)

 

 

その後は意識が拡大していく感覚が在って、これは一種の瞑想状態だなと

思いました。(目を開けている時に、しかも周りに多くさんの人がいるの

に、こう言う風な意識になったのは生まれて初めてです)同時に歓喜の感

情の本流がドッと流れてきて、その場で涙が出そうになるのを必死でこら

えていました。

 

 

そして本当に実際に大声を出して“ありがとうございます”

と叫び出したくなりました。この喜びを、この現実の世界の中に響かせた

いと言うような・・・けれど歓喜に満たされている意識とは別の意識が

様々な疑問を投げてきました。これは妄想ではないと思うけれど、この

ままの感情に翻弄されていても良いのか? 極端なプラス思考だけに囚わ

れているのは良くないのではないか? この状態のままでいた場合、自分

が何か間違った事をした場合、それを間違いだと認められなくなってしま

うのではないか?・・・つまり、どっぷりとこのプラスの感情だけに依存

してしまい、(この感情はとても地良いので)盲目になってしまうので

はないか? ・・・等など。

 

そう考えている間も喜びの感情は持続していました。これらの疑問はまだ

未解決のものとして残りましたが、私は生まれて初めて何ものをも要求し

ない無償の喜び? !を経験し、そしてそれは私にとって180度、天と地

がひっくり返ってしまった体験でした。そしてこの感情の認識は私にとっ

て必要なものであったと思います。

 

 

 

 

以上、個人的な体験ですが、「ありがとう瞑想」の効果は、私の中に実証?

されました。勿論一人一人同じ体験をするとは言えませんが、特に性格的

に自分を追い込んでいく人などには恰好の薬になると思います。

 

そういう場合、一人で家に閉じこもってするよりも、一度外へ出て、多く

さんの人がいる所でやってみると、劇的な変化があるのではないかと思い

ます。ヒョッとしたら、この瞑想法で精神病なども直るのではないかと思

うのですが・・・

 

この体験の前に中国画専門の美術館へ立ち寄ったのですが、そこで思いが

けない話を聞きました。そこを管理しているご年配の男性が美術について

の話をして下さいました。絵というものは、ただ、現実を忠実に描いて

いるだけでは何の価値も無いと私は思っています。家は自然と向き合い、

その形の中の“中に在るもの”をじっと観て“見抜いて”、それを自分の

絵の中に表現出来なければ、どんなに素晴らしい絵を描いても、それは何

の価値も無いと私は思っています。と言うような内容の話をしてくれま

した。

 

 

 

 

振り返れば私自身、如何に物の形だけに囚われ、その本質を見ていないか・・・そして見抜く力さえ持っていないということを、改めて私に教えてくれました。まだ様々な葛藤はあるけれど、何んとなく目標のようなものが見えてきた気がします。

 

機関誌2 8 号のレベルの詩は、上体験をしてから後に読みました。

 

P 50 12 行目からの記述「貴方が現象を通して〜〜~から以下の文を、私の体験に置き換えて考えてみました。

 

私は痛みをコントロールすることを発見し、それは今までの私から見れば、

正に「奇跡と言ってよいかも知れません。私はその発見を単純に喜び、

自分が少しは進歩したのかと錯覚し、それに滴足していた。

 

 

 

 

この喜びに狂喜している私の思考を“レベルの詩”で解釈するとすれば、

レベルの詩”の言葉は無慈悲で酷い厶チのようだ。

 

自分で発見した小さな喜びを台なしにされ悲しくなる。

 

特に2 0行目の言葉は、私を崖から突き落すようなものだ。私はこの小さ

な発見を喜ぶことによって罪人にならなければいけないのか?!・・・

は喜んではいけないなんて! ?

 

しかし、この“レベルの”の文章をよ一く読んでいると、そこに罪にな

る場合の限定条件が書かれている罪になるのは、自分が発見、又は学ん

だものに満足してしまう事だと言っている

 

私の今までの価値観では、満足とは当然あって良いもの、つまり、そ

れは喜びを生み出し、精神的活力になると思っていた。いわば心に対する

ご褒美みたいな・・・が、 無い頭を搾って別の観点からこの言葉を見てみると、別の意識が得られた。

 

 

 

 

満足する」という状態は、自分の生み出したものを完成させ、それに囚

われているという心の作用なのではないのかと。

 

例えば、画家が自分の描いた絵に非常に満足し、眺め入っていては、彼は

それ以上新たな絵を描くことをしないし、その必要もなくなってしまう。

つまりそれは、常に進化するという創造の法則を無視し、違反しているの

と同じ事である。

 

では一体、私はどのように行動すれば良いのか?・・・囚われることを止

めれば良い。既に生み出されたものはウンコでしかない(あ—汚い言葉)

と割り切って、次々と新しい奇跡の扉をノックし、開いていけば良いので

はないか?・・・その扉は決して尽きることは無く、無限に在るのだから、

という考えが出ました。

 

隣組回覧板の第1回目を、もう長い間、しっっこく抱えこんでいました。そして私の頭の中には、禅問答の石が現われては消え、消えては現われ。それが妙にひっかかっていましたが、或る日、「チベット死者の書や機関誌を読んいましたら、アラ不思議、別々の物事が芋づる式につながってしまいました。

 

まず、«無限»という言葉を使いながら瞑想していると、或る日から「善悪という言が気になってきました。勿論私には無限という言葉の真の意味は分かっていませんでした。

 

 

そこで無限であるとは何だと、事ある毎に無限という言菜を思い出していました。

 

物事を「善と悪だけに判断しようとすることは、たちまちに無限ではな

く、心の中に「有限な世界を作ってしまうことに気付きました。善悪と

いう価値観は限定した世界であると思えてくるのです。

 

 

 

 

例えば、殺人や戦争を善悪で判断しようとすればどうなるか? !

 

この世に善も悪もないならば、なんぼ人を殺してもいいじやないか!

ワッハハハハと開き直る人もいるかも知れない。けれど誰か憎い奴を

殺しても、この世から消滅させようと思っても、創造の法則で創造以外に

完全に消滅などさせられない。殺された憎い奴は又この世に戻ってきて、

彼の目の前に現われるだけだ。

 

人を殺すという極端な行為は、結局何の意味も持っていない。ただそれは

殺された方の人間は一回生きる人生の時間が短くなったというだけ。

 

殺した方の人間は彼の単純な思考を改めないかぎり、長い間、進化が遅れ

るというだけに過ぎない。それでも焦ることは無いのかも知れない。創造

は彼に無限の時間を用意していてくれるのだから・・・と言うことは、創

造は例え殺人者であっても、分け隔て無く進化の時間を与えてくれている。

 

それが創造の平等の愛なのかも知れない。

 

 

 

 

 

結局この世の中にあるものは創造の法則であり、善と悪で物事を決定し、

そので自らを縛り付けて限定された世界で生きているのは、自分自身で

しかないという認識になってくると思うのですが。

 

そしてこの問題は、自分が善悪を含めて全ての物事を判断するということ

が、どういう意味を持っているのかを証明している気がします。

 

これは「チベット死者の書載っていた話です。

 

或るアメリカ人がLSDという麻薬の力を借りて、自分の内面世界を体験

してみるという試みの中で限界を感じ、インドの修業者と出会いました。

その修業者にアメリカ人はLSDを大量に飲ませたのです。しかしその量

は普通の人間なら狂気に陥る事が確実な程の量です。ところがその修

は薬を飲んだ後も平気な顔で、ごく普通の状態だったそうです。

 

これを読んだ時に最初に頭に浮かんだのは「暗示力」です。私はこの修業

者は「暗示力を使ったのではないかと思ったのです。は意識的に「暗

示力によって、薬の効果を無効にしたのかどうか分からないけれど、そ

の時、その薬が自分に害をおよぼす毒であるという「疑念微塵も無か

ったのでは、と思うのです。は毒というものを単に危険な物という認識

だけではなく、別の価値からも見ていて、危険なものであるという固定観

念を取り払っていた。だからそれが暗示力と成って作用したのではないか

と。

 

 

 

 

このことは同時に、自分が持っている固定概念、価値観が如何に不安定な

ものであるかをも証明しているような気がします。

 

人にとって毒を飲むことはすぐ死につながる。けれど毒を飲んでも何でも

ない人もいる。自分が当たり前と思っていた物事が、見方を変えただけで

真実でも何でも無くなってしまう。

 

私は薬は良いもので毒は悪いものだと思っていた。けれどそんな価値観な

ど上記の話を考えてみればたちまちあやふやになってくる。

 

つまり、常識は事実の一部ではあるけれど、全ての真実を現わしているも

のではない。

 

私の心の中に「私には思い出すだけで心が痛と恐怖にうめく人物がいま

す。披は私にひどい言菜を浴びせのです。私はその人間を理解出来ない

し、はっきり言って嫌いです。その人間が自分と同じものであるという事

を思う事さえ嫌ですJ けれどこれは私が心の苦痛に対して持っている固

定概念の現われでしかないのだということが理解できました。つまり、私

の心の苦痛や痛みは、嫌なもの或いは悪であるという価値観に囚われてい

て、どうしてもそれから逃れたいとばかり望んでいたのです。ところが

死者の書」の中にこう言う記述があったのです。

 

 

 

 

嫌気がさしている痛でさえ、生きている自分を確認できる貴重な体験

のだと。

 

苦痛は悪ではない。それは認識に至る一つの鍵なのかも知れない・・・

に苦痛を与えていてくれる人間や物事は、私を学ばせてくれる貴重な存在

なのだと。

 

痛というものが無ければ悩むこともせず、考えることもしなくなる。

そうすると自分の心を覗き込む事もしなくなり、物事を認識するというこ

とも不可能になる。私に昔痛を与えてくれている人や物事は、自分を認識

するための貴重な存在・・・それは感謝こそすれ憎むには当たらない。

 

実在しているということは、ここに物質があるという状態だけを表わして

いるのではない、という言葉も本にありました。

 

実在というものは、実在を認識する意識が無ければ、実在というものは存

在出来なくなる。問題はそこに何かが在るというのではなく、それを感じ

ている、又は認職している意識が大切なのだということ・・・意識、つま

り自分の心、内面的世界。

 

 

 

 

無知を知るということ、真の理解するということがどう言うことなのか、

少しづつ分かってき気がする。

 

機関誌の表紙の裏に“真の理解には対立も批判も存在しない”と書かれて

あるが、私にはどう言うことか理解出来なかった。分からずに「いや、こ

れはこうじゃあないの、それは間違いだよ!と口を出したくてたまらな

くなっていた。けれど今、その意味が分かる。

 

自分が見ているもの、感じている事、考えている事、それらの色や形なん

て、ごく一部の色であり形でしか過ぎなかったのだ。

 

自分の価値観に依存し、狭い視野の中で見た事だけを知識として判断して

自分がそこに居た。

 

私の中に在る貴重な認識は自分が如何に貧困なイメージで物事をと

らえているかということが分かったという認識です。そしてこの世界を

知りつくすには、限り無いイマジネーションの力を利用すると役に立つと

思います。

 

 

 

 

例えば、石の重さについて

 

石の重さ・・・と言われて、私はすぐさま手の平に乗る位の石を連想し、

それに捕らわれてしまった。それでは答えは出なかった。

 

手の平に乗るそこらの道端の石だけが石ではない。

 

実際にこの世界に在る石を限り無くイメージしていくと、実に様々な石の

世界が在る。砂粒大の細かい石、渓流を成している大きな岩、そしてこの

地球も石で出来ている。ならば石の重さなど私に分かる訳が無い。

 

私はその問いを発した人間がどういう答えを求めたのかは分からない。

けれど、こうやってごく単純にイマジネーションを広げていくと、最初に

イメージした自分の価値観で生み出した石が、如何に固定観念で固められ

ていたものであるかが分かる。

 

石そのものに対する認識においても、ごく単純にイメージを広げていく。

私の体と石を分解していくと同じ原子というものが在り、私と石という原

子の塊は、大昔この地球から生み出された。そしてこの地球は一つの宇宙

から生み出された。石も私も皆同じところから同じ材料で生み出された。

そこには人と石を区別できるものは何も無い。

 

 

 

 

ごく限られた価値観で判断を下すのは、限られた

知識しか持っていない私の意識なのだ。

 

全てが同じ根源から出来上がっているという認識は、

 

鏡”の問題を解決し、“恋愛について”の問題も

解決してくれると思います。

 

何故、このような狭い価値判断で私は生きているのか?・・・それは物事

を深い考察無しにじるという行為から生まれる。

 

宗教の問題にしても、生活における価値基準にしても、生まれたときに大

人達が常職として行っていた言動を、そのまま次の世代も鵜呑みにして行

った。それを当たり前だと無意に信じていたし、それが先祖代々限定さ

れた世界を削りだしてしまったのだろう。しかし真実には、この現実は無

限世界で、イメージを広げるだけで、違った色彩形が見えてくる世界な

のだ。

 

 

 

 

私は[超能力]という、他人が持っていない豪華で、きらびやかな衣服が

欲しい。それが何故欲しいのか? その力は私が特別であることを表

わす。私はこの世で特別な存在で、その力があれば私は価値ある人間とし

て他人は皆敬うだろう!物を所有するのも、その価値の中には、常に自

分を他人より髙く見せたいという要求が潜んでいる。

 

それは狭い価値観によって、物事を劣で推し量り、物の本質的価値観に

おいて無知であると言うことを表わしているのではないだろうか?

 

では素っ裸の自分は価値が無いのか? いいえ、私の体は誰よりも美

しいと私は言う。だから私は価値ある存在なんだ。しかしここにも狭い限

定された価値観の中で生きている自分が居る。

 

私が美しいと思うその体の形は、いつか死と共に無くなってしまう。そう

すれば私はこの世で何の価値も無いものとして消えていく存在なのだろう

か?

 

私が大切そうに抱えているものは、いつか消えて無くなってしまうもの・・・それに何の意味があるのでしょう?

 

私はこれらの問題について、どんな答えが正解なのか、正直まだ分からな

い。けれどこれらは無限という言葉に注目して、次々につながりをも

って出てきた、私なりの答えです。

 

 

 

 

ーーこの問題はまだあいまいなのですが、浮かんできたことを記しま

す。それは原因と結果の法則の中で生まれるもの・・・例えば、所有欲があ

って、ある一つの物に出会うと言うような。

 

又糸と糸で結ばれている?人と人のつながり、結び付けるエネルギー。

 

イメージを広げると、この一つの地球に生まれた多くさんの人々、同じ時

代に生まれた多くさんの人々、例え出会わなくても、それも又縁なのでは

ないか?! ・・・そのように考えると、縁とは全てのものが一体であり、

つながっていることの証明?かもしれない。

 

縁とは、この宇宙に存在する全てにおいてのつながり。

 

 

 

 

縁とは、共鳴 良くも悪くも、意識しようが無意識であろうが、この

地球と宇宙にある全てがつながっていて、共嗚している。

 

私連は宇宙の共同体であることの証明? ! だからこそ、宇宙の人々

は地球を訪れ、自分逹の英知を分けあおうとしている!! 感謝です・・・

これも創造の愛というものの一部なのかもしれない。

 

回覧板は実践するしかない事もあるので省きますが、どうしても私の苦手

な分野があって、どうしても分からないというか、イメージを広げられな

いものがあります。それについてぼんの少しでいいですからヒントを機関

誌に載せて下さい!・・・Help me!!

 

美のエネルギーについての配述なのですが、人間がある物体を動かす場

からして分からない部分があります。

 

物質を動かす場合、基本的なエネルギーが必要なのは分かります。

 

エゴレベルのエネルギーというのは、簡単に言えば、人間が物体を動かし

たいという要、と考えてもいいのですか?

 

 

 

 

又、その両方のエネルギーの間に、なぜ物質エネルギーが介在するのか? ・・・そこのところが今いち分からないのです。

 

想念観察については、ほとんど剌激の少ない生活をしているので、心の中

が空っぽになっている時が多く、何も言えることがありません。

 

映画を見ているときに、悲しいシーンになると泣きたくなって、涙が出て

くるのですが、そう言うときに、自分のに注意を向け、感情に流されて

いる状態だというのを意します。そして呼吸を整えます。そうすると自

然と波立つ感情が和らいでくるのです。

 

これは感情をコントロールしていることになるのかな?・・・これではい

けないのでしょうかね?

 

 

 

 

もう一つ、テレビを集中的に見ている時に限って、気がついたら貧乏ゆす

りをしています。動きは波にゆられるようにゆらゆらとしています。

 

自分の内面に目を向けると、何んとなくですが、テレビの映像に反応して

いる感情の波を、体を動かすことによって発散している、又は表現してい

る感じです。今までそんなことはなかったのに不思議な気がします。

 

 

このはそろそろ止めたいな一。みっともないよ一。

 

長々と読んで下さって、どうもありがとう!ご苦労様でした。

 

ジギルとハイドより

 

 

 

** エゴレベルのエネルギーというのは、簡単に言えば、人間が物体を

動かしたいという要求、と考えていいと思います。その時、その

動かしたい物体は目に見えるものも見えないものも入ると思い

ます。つまり、人が人の気持ち(意識)を動かしたいと思うことも

含まれるということです。

 

又、その両方のエネルギーの間に、なぜ物質エネルギーが介在する

のか?との質問ですが、貴方が物質エネルギーと思っているものも、

そうでないと思っている(もしかしたら波動と考えているかも

しれないエネルギー)も、全ては同一のもので、この宇宙には『エ

ネルギーと波動しかありませんとは、アランさんの説明です。

 

そして、そのエネルギーの根源は?・・・ノーヒント

 

エネルギー問題はとても面白いことが沢山絡み合っていますので、

どうぞ楽しんで解いてみて下さい。 編集部