21世紀人になるために

宇宙の方々の仲間に入るには「想念観察」は必須条件です!!

水瓶座讃歌30 パート1

読者の頼り

 

前略
となり組回覧板(NO2)を読み、いつもながらアランメッセージの本質的な表現には感心しております。この回覧板に限らず、字宙の友人のメッセージの中心は「エゴ体が持たざるをえない善悪観」をどうみるか? ・・・

 

と言うことのように思います。私達はどうしても善と悪の判断に立ち、善
なるものはこれを取り入れ発展させようとし、一方、悪なるものは棄て去
り消そうという傾向を持ってしまい、精神的、或いは霊的な歩みの中では、
この問題が一層明確になってくるようです。

 

 

私自身、かつて直面した善悪二元の見方によって、さんざん自己嫌悪に陥
り、自殺の一歩手前まで行ったことがあります。そして辿りついたものは

「善悪一如」であり、「善悪未生」でした。つまり、善と悪は分けること

が出来ない、或いは本来善も悪も無い(生まれていない=末生)と言うこ
とです。

 

善と見え、悪とみえるものは「物質的相対の世界」であるこの三
次元世界の仕組がそうさせるのであって、創造(神)が意図される「魂の
進化」の学びのために与えられたものだと思うのです。

 

 

単純なことですが、仮に「善」と「悪」を分けようとするなら、善と悪の

定義を明確にする必要があります。しかし善の意識を「悪」の概念無しに
することは出来ませんし、悪の定義には「善」の概念が不可欠なことはす
ぐに理解できるでしょう。

 

 

 

 

 

このことは一歩突っ込んで考えれば、私達が善を知るには、悪を知らねば

ならないことになります。つまり切り離すことが出来ない。切り離すこと
が出来ないということは、お互いが必要であり、必要なものならば全て善
と言うことが出来、本来善も悪も無いということになると思うのです。

ただ私達の魂が髙次元へと進化するためには、「悪を経験し」-> (反省し)

「善に立ち戻り」->「更に髙次の善を知り」 -> (再び反省して)->「よ
り髙次の善を知り」 -> 「次の悪」・・・・ と言うふうに、善悪を楯環しつ
つ、スパイラルアップさせる必要があるわけで、創造(神)がこの仕組を
作られたと捉えてしまえばよいのではないでしょうか。

 

上記の「( 反省して) 」の部分で、私達が犯すミスが「善悪分離」です。
ここで悪を認めず否定してしまえば、もはやスパイラルアップはありえません。

同じところを堂々めぐりして、ますます轍を深め、善に生き切れな
い自分を貴め、自己嫌悪、自己否定へと落ちこんでいくでしょう。

以上のような理解のもとに、宇宙の友人のメッセージを読むと、私にはと

ても納得がいくのですが、如何なものでしょうか? 三重県 U記

 

 

 

早々に機関誌と本が届きました。

早速機関誌とアテルサタを同時進行で読み始めました。家で機関誌を読み、昼休みに
会社でアテルサタと言う具合です。

その数日後に、少し仕事の要領の悪いアルバイトに仕事をアレヤコレヤと
教えた後で、2、3回同じことを説明しないと理解してくれないので、

「ああ、もうしんどいな〜〜。人に教えるのは疲れるな〜〜まったく」と
頭の中でブツブツと言っていました。そうしたら“ああ、もしかしたら、
彼ら(宇宙の人たち)も私達にいろいろなことを教えたり指導したりと、

やっぱり疲れるんだろうな」と思った直後に“そりゃあもう、くたくたさ
あ”と頭に浮かんできました。

 

 

1月15日、瞑想を初めて数十秒で身体が前後に揺れ初め、その後に左右
に揺れ始めました。その時頭は空白状態で、意識も身体もなすがままにま
かせていました。その間、目の前がどんどん真っ暗になっていき、自分の
意識がその真っ暗な中に浮いているような感覚になり、温かさを感じまし
た。又無限の広がりを。特に斜め下方向に180度の広がりを感じていま
した。心は安心した状態で、出来ればこのままの状態でいたいほどでした。

 

その後に、読む本の理解度が少し深まったような気がしています。

1月26日、瞑想を始めて数十秒で身体が前後左右に、そして時計と逆方
向に廻り始めました。身体が凄く髙い位置に居て、下を見ているような感
じがした後で、顔や身体全体が腫れぼったいような感覚でした。その間、
体は廻ったままです。この感じは何だろうと思っていると、段々木のよう
な感じがして、大木の一部のような気がし、そして大木そのものという感
覚を実感しました。そして回転は止まり、左右に振れてから体も止まりました。

 

 

その間、25分から3 0分ぐらいです。終わった後で頭に浮かんだ
ことは、15日の瞑想では宇宙の中にあるという状態で、26日は、太古
の大木という存在であったことを意識の中に呼び覚ましたのではないかと
思います。

 

 

 

1月2 7日、体の揺れは同じでしたが、何故かこの日は雑念が多くでてき

ました。又感覚が何であるか「知ろう」という意識も強かったみたいです。
その時、「知ろうと思うな、知ろうとするな。」というものを感じました。
ですが、この日はどうしても雑念や知ろうという想念を消すことが出来ま
せんでしたので、急に回転がピタッと止まってしまいました。

 

 

その時、“だめだ、だめだ、今日はもう止めだ!”という感じを受けまし
た。

2月1日、やはり最初は同じ揺れ方をしましたが、今度は時計と逆方向の

後に、時計方向にも廻りだした後に、腰が左右に膝が上がるくらいに振れ
ました。腰の左右の筋肉が少し痛くなるくらいでした。そして最後に頭だ
けが左右に振れてからピタッと全てが止まりました。この日の瞑想の途中
で、外の方から急にネコの鳴き声がした時、頭にネコのイメージがパッと
浮かびました。そしてネコの吊り上がった目のイメージも見えました。

 

 

雑念や想念はこの時点で消すことも出来ていました。

その後、瞑想の度に体の揺れは複雑な動きをするようになっています。
神奈川県 T中

 

 

FUJI日本の皆様

久しぶりにお手紙を書かせて戴きます。

昨日の夜、私は初めて自分のために大根をすり下ろして食べました・・・

子供が日曜日の朝から熱をだし、夜の御飯はおうどんを作ってあげて、さ
て、私は何を食べようかな・・・と・・・チリメンジャコが目にはいり、
“大根下ろしが食べたいな”と思い、大根をすっている時に“今まで自分
の為に心をこめて何かをしたことって無かったな・・・”と、私がずっと
見落としてきたこと・・・一番大切な自分自身だったのです。

 


想念観察の意味は、これだったのでは?と感じました。

自分が自分を見詰める・・・とても難しく思い考えていたのですが、昨日
大根をすり下ろしている自分を見て感じたものは、とても大きなものでし
た。

 

自分がとてもいとおしく思え・・・なんて粗末にしてきたのだろうと・・・。
誰かの為に(例え子供であっても)してあげても、判ってもらえなければ
怒ったり、イライラしたり・・・でもそれは当たり前のことだったように
思います。自分を大切にせず、他の人を大切にしている・・・それはつま
り、大切にその人のことを思ってあげていることに、自分で満足していた
だけ・・・私は良い人だと・・・。

 

 

一日を生活している間の出来事は、たわいもないことのように思っていたけれど、そのたわいもない一つ一つを見詰めながら、味わいながら、感謝しながら、過ごさなければいけなかったのではないでしょうか?

今を生きる・・・ってことは、そういうことなのでしょうか。

私が、私のために大根をすり下ろしている姿を通し感じた出来事でした。
その大根下ろしはとってもおいしく・・・涙を流しながら頂くことが出来ました。せっかく気付いたとっても大切なこと・・・私が探し求めているものは私の身近に在るのでは?・・・そんな気がします。

 

 

桜の木の枝の先は、今にも芽を出しそうな感じで、ふっくらしてきました。
春はもう近くに来てくれています。私の心も同じ気分です。必ず芽をだし
花を咲かせたい・・・大切にします。 西宮市K栖

 

 

 

こんにちは 初めてお便りします。
「パスポート」読ませていただきました。素晴らしい内容でした。

前作も読んでお便りしようと思ったのですが、私は今、原因不明の“ねむ
たい病”にかかっていて、ず一っと眠い感じが続くというやっかいなもの
で、ひどくなると手紙どころではなくなってしまうので、今のうちに書い
ておこうとペンを取りました。

 


今も思考が4割くらい落ちているので支離滅裂になってしまうかも知れま
せんが、どうかお許し下さい。

 

私は現在3 0歳の主婦です。小さいころから精神世界にはわりと興味があ
り、自分なりにジクソーパズルのピースを集めてきたつもりです。

 

真実を見つける為には、なるべく片寄らないように、霊界から、バシャー
ル、エクトン、UFO、宗教・・・とランダ厶にいろいろな情報を集めて
いました。そこでこの本に出会ったわけですが、共感することが沢山あっ
たので、とても驚いたのです。ちなみに共感した単語を上げれば、「胎児、
宇宙の法則、想念、バランス、宇宙エネルギー、混沌」女の子が書いたと
言う  「現実は煙のようなものということ」・・・など、それから中田君の

「人を愛するという話」とその裏にあるエピソードの所で、泣きそうにな

ってしまいました。

 

 

それから最近はいろいろなことがシンクロしはじめているように強く感じ
ています。プライベートでも偶然というには余りにも出来すぎているとい
う様なことがあったりして、・・・まあ全ては必然であるということで考
えれば全然不思議じゃあないんだけど・・・。

 

 

 

エリーナからの詩の中で、“疑問を解決する必要はない”とか、“理解す
ることに心を奪われないように”とあるけれど、“おバカ”な私はどうし
ても考えてしまうのです。こんなに眠いのに〜〜〜〜〜

ジクソーパズルのピースを集めれば集めるほど判らなくなってくる。
集めるほどに、その色も形も想像以上に複雑なことに気付いてくる・・・そ

うすると次に自分はどのピースをはめようとしているのかも判らなくなっ
てくるのです。

 

一番のネックは、良いことと悪いこととは一体何だろうということ。

善悪とは相対的なもので、そのどちらでもあるし、どちらでもないのでは?

・・・とすると、宇宙人が導こうとしている方向があるということは、や
っぱりそれは良い方向ということになるの?・・・じゃあやっぱり良いこ
とと悪いことってあるのね? ・・・ううっ

 

私は色で言うと、ピンクや紫が大好きで、でもそれは茶や灰色の嫌いな色
と比較するから、はじめて好きだという感情が起こる訳で、どちらも良い
色でも悪い色でもないと自分に思い込ませようとすると、情熱がスーッと

失われてしまうのです。これは全てのことに言える訳で、全ては中立であ
ると思えば、今在る苦悩は消えるのですが、同時に意欲や情熱までも消え
うせて、全てのことがどうでもよくなってしまう・・・他人を批判などし
たくない・・・あらゆる考えがあっていいと思う。

 

 

けれど、心の底では何かが間違っていると思い、自分の進もうとする道が正しいと思わなければ、情熱というエネルギーが出てこないのは何故だろう?

それから“感謝”という言葉に対して、私にはまだちょっと抵抗がありま
す。素直にそれが出たらとてもいいだろうとは思うのですが。

 

 

あまり純粋とは言えない自分にとって、とてもまぶしい光に対面させられ
るような、そんな抵抗感が在ります。おバカな私には、感謝ということが
よく判らないのです。

 

 

例えば幼稚園の子供に“健康は良いことだから、健康でいられるよう注意して生きなさい”と言っても、何んとなくは判っても、じゃあどうすればいいのか、さっぱり判らないという感じです。

 

具体的に朝は7時に起きて夜は10時に寝ましょう。
御飯はお肉も野菜も魚もきちんと食べて、ファミコンばかりせず外で遊びましょう・・・とか・・・全く・・・ダメだ。

 

“生かされている”と言うことにしても、よく霊能者が“生かされている
ことに気付きなさい。”と言ってるのですが、それがとても大事だと言う
ことは判るのだけれど、実感しているかと言われればギモンです。

 

ただ、さっき何気無くベランダにある鉢植えを見ていて思ったのだけれど、
彼らは私が水をあげ光に当ててあげなければすぐに死んでしまう。けれど
彼らは私という存在がいることを知っているのだろうか?

 

精霊という話はここでは別にすると、植物の能力ではとても理解すること
なんて出来ないだろう。彼らには気がついたら何んとなく水が降ってきて、
光が当たって、ただ、当たり前のように生きているだけなのです。

 

私達人間も、地球鉢植え、いや宇宙鉢植えといった感じなのだろうか?
私達の能力ではその向こうの世界のことなど、きっと想像することも出来
ないのだろう。

 

ところで、最近、私の頭の中に“二つでひとつ”という言葉がよく浮かん

できます。何かしら大事なキーワードという気がしますが ーーー。

東京都K本

 

 

 

こんにちわ!

前回の手紙にエネルギーの質問を出しましたが、ヒントを有難うございま
した。あれからずっとエネルギーの問題と遊んでいて(遊ばれていた? !)
ひょんなことから判ったことがあります。いつもながら余りうまく説明出
来ないのですけれど、お手紙しました。

 

 

エネルギーについては、まず物質的エネルギーと霊的エネルギーとは何だ
ろう? ・・・という疑問から入って、具体的に物質エネルギーとは・・・霊
的エネルギーとは何だろうと分けてみようと思ったのですが、訳が判らな

くなって挫折してしまいました。機関誌やマイヤーさんの本を読み直して
みて以下のような定義を書き出してみましたが、エネルギー問題はそれ以
上進まず、日が流れていきました。

 

 

物質とエネルギー

物質の定義・物質はエネルギーが髙度に集合したもの。
基本エネルギー=純粋エネルギー(霊のエネルギー)

物質エネルギー=イメージ的に電気みたいなもの? ?
エゴエネルギー=物質的意識力(想念のエネルギー? !)

 

実は機関誌の情報はそれぞればらばらで利用しずらく、情報をまとめて小
冊子を作ろうと思い、マイヤーさんの本の意識の表など読み直してワープ
ロに書き出す作業をしていました。その中でフッとエネルギーに関する想
念が浮かんできました。最初に、人間の肉体は細胞という単位が在り、次
に遺伝子、そしてアミノ酸分子、そしてその次には原子になる。

 

 

最後にセムヤーゼの本に原子の次には素粒子が在り、クオークがあり、あと4つの
段階が在って、その究極の単位が霊であると書いてありました。そこで疑
問が生まれました。それは私が友達と作ったミニコミ誌に書いていた文章
が引き金になっていました。題名は「宇宙人は居るか?」というもので、
現代の科学者たちの意見を個条書きにまとめたものなんです。

 


地球外生命発生の可能性についての反対の意見を持っている科学者の意見
は、「この地球で生命が発生し、人間のように髙度に発達したのは特別の

ことで、偶然の産物だ」というのです。そして宇宙人が居るだろうと言っ
ている科学者逹の意見の中に、「生命はこの地球上で何らかの作為的振舞

を持っている」だから地球外にも条件があれば生命は発生するのだと。

 

 

作為的振舞と言う言葉には大事な意味があると思うのですが、現代の科学
ではそれ以上の事はまだ認識の外みたいです。

 

生命の発生について創造の法則に照らして考えてみると、この地球上で生
命が発生するのは、決して偶然でないことがすぐ判ります。この地球が偶
然で成り立っているのなら、科学者にしろ物理学者にしろ、彼らの見つけ
出した全ての法則も役に立たないことを意味します。つまり偶然には法則
は存在しないということです。全て偶然なのですから・・・それとも偶然
法則が出来たとでも言うのですかね?

 

 

物質はおよそどんなものでも、その中に法則を宿して生命として生きてい
る。それはその法則が生命を成り立たせていると言っていいかもしれない。

 

法則は生命の、又は物質の中に内在し、そしてその生命や物質を動かし、
成り立たせている。そこで疑問が出来ました。例えば私の中に人間として
の生命の法則を宿し、それを実行している存在が在るはずだ。それはどこ
にあるのだろう?・・・しかも不思議なのは、その法則という、あいまい
で、およそ意識を持ちそうにも無い無機的にしか見えないものが、生命を
活動させているのです。

 

 

私の中にある一個の細胞(又は原子)が、私の意志とは関係無く、私の生
命を支える活動を行っている。私にとってはとてつもない不思議です。

 

この疑問はそのまま物質が単に死んだ、又は無機的な物質でないことをそ
のまま証明していることに気がつきました。判り易く言うと、私の体を構
成している物質には、原子というおよそ自分の意識や判断力を持たない物
質が在る。原子という物質には、生物のような物事を判断すると言うよう
な頭脳がありません。けれどその原子という単なる物質的機械としてしか
捉えていないものにも、他の原子と結び付いて生命を作り出すという機能
と判断力が在る。

 

 

このことは、あの小さな原子の中に、その原子を原子として生かし、機能させ、そして更に巨大な生命を作りだし維持していくという全ての情報が内在されていなければならないことを証明していると思う。

 

原子の中にはスーパーコンピュターがあると言ってもいいかも知れな
い。そして原子から先の物質は、第四の段階で物質レベルの存在ではなく
なってしまうという、上記の物質の定義を思い出してみると、物質はエネ
ルギーの髙度に集合したものである・・・  この定義をそのまま物質=エネ
ルギーという式になりますよね!?

 

 

だとすると、物質というのはエネルギーそのもので、物質又は生命として
の形を作り、法則を内在し、生かす活動をしているのはエネルギー? !

結論・基本エネルギー==創造の法則を内在し、それを実際的な活動(力)

にするもの。そしてこのエネルギーは創造の純粋な霊であり、まさ
にその中に生命又は物質を生み出す全ての情報、理念、法則を内在
しているスーパーコンピュター。

 

 

理念という概念(法則)! ?が物質になり、生命になるというのは、ウ〜

〜〜ン、ノックアウトされそう・・・不思議です。

 

 

そして霊とこの基本エネルギーは分離出来ない同一のもの!?・・・とい
う考えが出ました。今までエネルギーといえば電気物質のようなイメージ
しか持っていなかったのに、この考えはエネルギーというものを180度
まるっきり変えてしまいました。そして創造の霊に対するイメージも又全
く変わってしまいました。

 

 

まだまだ判らないことは多すぎるけれど、物質一つが存在するのを考えただけでも、驚異とか、神秘としか言いようがなくなってしまいました。創造の創リだした宇宙が、とてつもなく大きく、とてつもなく深いな一という実感が湧いてきます。同時に人間は認識出来ない知識を利用できる力も無いのに持つと、発狂してしまうというのも、

何んとなく直感的に浮かんできました。創造の世界は余りにも深すぎる・・・・・

 

 

以上のようなことがあって、もう一つ別の事がひらめきました。「ひろさ
ちや」という仏教学者が書いた「ソクラテスの原子」という面白い記述が
ありました。ある物理学者の計算なのですが、遥かな昔に生きていたソク
ラテスの体を構成していた原子が、彼の死と共に分解されて、現在の私達
の体の中にも少しづつ存在しているそうです。原子は決して消滅しないと

いうことです。

 

そしてそれは生命の破壊や死は全ての消滅ではないことを表わしている。私が死ぬと私の霊という存在は霊界へ行って決して消滅しない。しかし私の肉体は用が無くなったら焼き場で焼かれ無くなってしまう。

 

それで全て終わり・・・とそんな固定観念があった。けれど実際には
私は体は火葬場で煙になり、空気に混じり、雨となって大地に戻る。そし
て木や草の中に栄養物として入り込み、それを草食動物が食べ、それから
肉食動物や人間が食べれば、私は植物にも動物にも人間にも成れることに
なる。リサイクルですね。

 

 

私は「私」という一個の存在ではなく、他人、或いはこの地球の全ての生
命や物質そのものなのだ。他人やその他の生命がかけがいがないと言う理
由は、それら全てが自分の生命を構成し支えているから、どんなものでも
必要な存在なんだ。

 

(この生命のリサイクルは実は小学校の理科の時間に習ったんですよね。

ただそれを物質的な意味合いで理解するか、別の見方をするかで、意味
が全く違ってくるのですね)

 

 

物質とエネルギーの問題は、まだまだ沢山ありそうですが、(私の内部の
声がまだ満足していないみたいです。認識出来て一瞬満たされるけれど、
すぐに冷めた目がどこからか覗いています。)

 

 

最近、精神世界オタクに成り過ぎているので、現実生活とのバランスをと
らなきゃならなくなってきました。しばらくエゴとの戦いになりそうです。
では又、お元気で。 札幌 Y田

 

 

** エネルギー問題は捉え方によってはとても奧が深いので、少し整理
するつもりで吉田さんの手紙を載せてみました。

科学に「エネルギー不滅の法則」と言うのがあり、Y田さんが実感

したのはその一端だと思いますが、「エネルギー不滅(増減無し)」
どころか、「ビックバン説」を単純に解釈すれば、エネルギーはど
んどん増えつづけているように受け取れます。

 

地球の科学は物質を対象として研究する学問で、あくまで物理的捉

え方をしますので、ある所で壁にぶつかります。それは上記の「ス

ーパーコンピューター」を誰が存在させているか・・・と言う問題で
す。「スーパーコンピューター」が「スーパーコンピューター」を
存在させた?・・・とは言えないし、偶然「スーパーコンピュータ
一」が出来た・・・と言うのがオチでしょうが、「偶然」は確率5
0%の世界ですから「完全性」はありえない世界です。

 

しかし人間の体一つとっても、字宙の星々の規則正しい運行をみても、そこに
は無限の昔から「完全性」が支配しています。この「完全性」を一
体誰が行わしめているのか・・・・・

 

私達もその「誰かさん」を探し求めている旅に出ている訳ですが、
さて、皆さんはもう「誰かさん」と握手出来ましたでしょうか?